米原章三
米原 章三(よねはら しょうぞう、明治16年(1883年)11月16日 - 昭和42年(1967年)10月19日)は日本の実業家、政治家。鳥取県多額納税者[3]。鳥取県会議員、貴族院議員。鳥取市名誉市民[4]。旧姓藤縄。 来歴・人物生い立ち鳥取県八頭郡河原町(現・鳥取市)に生まれた。実父の範七は1885年に県会議員となったが[5]1890年に病没、その後家運は衰退した[5]。 高等小学校を終えると鳥取県立簡易農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)に入った[6]。17歳の春に同校を卒業すると、若桜小学校で代用教員として短期間勤務した[6]。 1900年9月、大日本農会附属私立東京農学校(現・東京農業大学)に入学、1903年に卒業。続いて早稲田大学専門部に入学[6]。この頃米原は植村正久に心酔し、九段の教会に通ってクリスチャンとなり、酒、タバコを絶ちピューリタンとして真剣な信仰生活に入った[6]。 後にキリスト教から離れるが、彼の生涯には深い影響を与えるものになった[7]。 智頭町の山林地主であった米原家の長女と結婚[7]。 1906年7月、早稲田大学専門部政治経済科を卒業すると直ちに帰郷して、家業の林業に従事した[6]。 政治・経済界への進出山林事業の近代化にのり出し、八頭木材会社の経営に参加した[7]。ついで銀行業にも目をむけ、大正鳥取銀行の創設に参画し、役員として経営にあたった[7]。 1911年智頭村会議員になってから、1923年鳥取県会議員となり、1928年には県会議長となった[7]。さらに1932年貴族院議員にもなった[8]。 1930年、県東部のバス・タクシー八社を合併して、日ノ丸自動車株式会社を発足させた[8]。その後1944年までに二八社を統合して、全県バス網を一本化した[8]。 1938年、丸由百貨店(後の鳥取大丸)を設立して、その社長になった[8]。一族の由谷正太郎の発議した事業だったが、当時は町ともいえなかった鳥取駅前に位置を定めたのは、米原の意見によることだった[8]。 1939年鳥取新報、因伯時報、山陰日日新聞の県内三紙を合同、日本海新聞を創立して初代社長となった[9]。 戦後は公職追放となり[10]、追放解除後には1958年日本海テレビを設立。 晩年1967年10月19日、鳥取市内の病院で死去。 1969年9月、鳥取市議会で6人目の名誉市民に選ばれた。 家族・親族米原家
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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