篠原 尚之(しのはら なおゆき、1953年(昭和28年)2月8日 - )は、日本の元財務官僚。元国際通貨基金副専務理事。
人物
山梨県出身。甲府第一高校、東京大学経済学部卒業。小宮隆太郎のゼミで国際金融などを学ぶ[1]。
1975年に大蔵省入省。2007年から2年間、財務官を務め、G7財務大臣中央銀行総裁会議の議長国(2008年)として、またリーマン・ショック(2008年9月)への対応などに当たった。2009年2月14日、中川昭一財務大臣兼金融担当大臣(肩書きは当時、以下同)のローマで行われたG7の財務大臣・中央銀行総裁会議後の朦朧記者会見時に同席していた。
財務省退官の後、2010年から5年間、IMF(国際通貨基金)副専務理事として欧州債務危機等に対応した。2015年6月、三菱重工業取締役。2015年7月、東京大学政策ビジョン研究センター(現東京大学未来ビジョン研究センター)教授。2015年11月、メディア工房監査役。
略歴
学歴
職歴
発言
- 2014年の消費税率8%引き上げについて「大変結構でG20でも歓迎される」と評価している[5]。
評価
- 「時に無愛想ともとれる面持ちで黙々と目の前の仕事をこなしていくうちに、付いたあだ名が”眠狂四郎”だ。1997年7月には途上国担当の課長としてタイのバーツ危機を経験した。」(日本経済新聞2007年7月12日)
- 「財務官時代は危機対応に追われた2年間だった。その間、日本の金融当局の代表として国際的な財政・金融政策の協調に向けた折衝の最前線に立った。IMFの資金基盤の拡充やチェンマイ・イニシアティブの強化などに貢献した。」(日本経済新聞2009年7月14日)
- 「2010年3月、世界金融危機のさなかに就任した篠原氏は、(中略)IMFの資金基盤を5000億ドル以上拡充するという取り組みに貢献した。(中略)また、IMFの融資制度の広範な改革の責任者としても手腕を発揮した。(中略)ラガルド専務理事は『篠原氏は、その優れた能力と鋭い洞察力をもって、IMFの危機対応に尽力し、そして総合的に我々のグローバルな加盟国との関係強化に貢献した。我々すべてから退任が惜しまれる存在である』と述べた。」(IMFプレスリリースNo.15/03 2015年1月14日)
- 「榊原英資氏や日銀総裁の黒田東彦氏ら前任者に比べ、慎重で派手さを嫌う財務官だった。淡々とした筆致で「次の危機」に際し、教訓となりうる交渉の舞台裏を書き連ねた。」(日本経済新聞2018年3月17日 著書「リーマン・ショック 元財務官の回想録」の書評)
著書・寄稿など
- 『リーマン・ショック 元財務官の回想録』(毎日新聞出版社、2018年2月)【書評の掲載は、日本経済新聞2018年3月17日、読売新聞2018年4月22日など】
- 『新興国経済の課題(下) 国際通貨へ市場の厚みを』「経済教室」(日本経済新聞2011年10月27日)
- 『人民元SDR構成通貨に(上)国際金融体制の変革象徴』「経済教室」(日本経済新聞2015年12月16日)
- 『リーマン危機10年(下) 自国優先抑制の効用証明』「経済教室」(日本経済新聞2018年9月14日)
- 『世界経済のメガトレンドーミニトレンド』「公研セミナー」(公研 No.609 2014年5月)
- "Abenomics at the Crossroads" NHK World Global Agenda (2016年10月30日)
同期入省
脚注
関連項目
- 先代
- 細見真
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- アジア開発銀行日本理事
- 1998年 - 2001年
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- 次代
- 塚原治
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1952年8月1日、財務官から財務参事官に改称。1968年6月15日、財務参事官から財務官に改称。 |