箕作箕作(みつくり)は、日本において、箕(み)をつくることを生業とした者の総称である[1]。補修を行う者を箕直(みなおし)と呼ぶ[2]。 略歴・概要日本での「箕」の使用は古く、唐古・鍵遺跡(奈良県磯城郡田原本町大字唐古および大字鍵)から、弥生時代前期初頭(紀元前8世紀ころ)のものが完全出土している[2][3]。「箕」は、平安時代、934年(承平4年)前後に成立した漢和辞書『和名類聚抄』では、『説文解字』(紀元100年)を引用し、「米などの穀物を簸て殻、塵などを分け除く器」(「米などの穀物をふるって殻・塵などを分けて除去するための器」の意)と説明している[1]。そのような本来の目的のために「箕」を使用することを示す動詞は、「簸る」(ひる)である[4]。 「箕」の製造および補修には、熟練した特殊技術を必要とするため、専門の製造業者「箕作」、あるいは補修業者「箕直」の存在が不可欠であった[2]。製造あるいは補修を生業とし、稲作等の農業を営む村落を訪問し、注文をとって業務を行っていたのが「箕作」、「箕直」と呼ばれる人々であった[2]。室町時代、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』には、「いやしき身なる者」として、シキミを行商する「しきみ売」(樒売)とともに「箕つくり」として紹介され、描かれている[5]。 江戸時代、1712年(正徳2年)前後に完成『和漢三才図会』では、「箕」は「塵取」のようなものである、と異なる定義がされている[1]。その上で、同書では「箕」のうちの「米を簸る箕」の産地は「泉州上村」(和泉国和泉郡池田荘上村、現在の大阪府和泉市池上町あたり)であるとしている[1][6]。同書によれば、原材料は、楮(コウゾ)、筱竹(メダケ)、藤蔓(フジのつる)であるという[1]。元禄年間(1688年 - 1704年)に、下総国匝瑳郡木積村(現在の千葉県匝瑳市木積)で、孟宗竹(モウソウチク)、篠竹(シノダケ)とフジを使用した「化粧箕」と呼ばれる「藤箕」(ふじみ)の製造が始まったとされている[7][8]。当時、同地域での「藤箕」の箕作技術は定評があり、「木積の藤箕」の商圏は関東一円であったという[7][8]。 埼玉県入間郡毛呂山町葛貫には、1960年ころ(昭和30年代)までは「桜箕」(さくらみ)の箕作技術が現存しており、農家が兼業で製造していた[9]。1994年(平成6年)、民族文化映像研究所(代表姫田忠義)が同地に残る数少ない「箕作」に取材し、中篇ドキュメンタリー映画『埼玉の箕づくり 毛呂山町葛貫の桜箕』(監督:柴田昌平)を製作した[9]。同地の桜(サクラ)の樹皮と篠竹(メダケ)を使用したものである[9]。前述の「木積の藤箕」の箕作技術が現存しており、2009年(平成21年)3月11日、「木積の藤箕製作技術」として国の重要無形民俗文化財に指定された[7]。同文化財の保護団体は「木積箕づくり保存会」[7]。鹿児島県日置市大字日吉町日置字柿之谷には、キンチク(ホウライチク)、山桜(ヤマザクラ)の皮、枇杷(ビワ)の木、大葛藤(オオツヅラフジ)を使用する箕作技術が伝えられている[10]。岩手県二戸郡一戸町面岸には、ニギョウ(サルナシ)の皮を使用する箕作技術が伝えられている[11]。富山県氷見市大字論田・熊無には、矢竹(ヤダケ)、漆(ウルシ)、フジの皮、サクラの皮を使用する箕作技術が伝えられている[12]。青森県中津軽郡西目屋村には、板屋楓(イタヤカエデ)を使用する箕作技術が伝えられている[13]。いずれも山深い地形の小さな集落に伝わる技術であり、山の文化であるとみなされている[11]。 地名日本各地の地名に残る「箕作」には、下記のものがある。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |