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艦歴
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計画 |
昭和6年度計画[1]
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起工 |
1931年12月22日[1]
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進水 |
1933年3月30日[1]
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竣工 |
1933年8月31日[1]
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その後 |
1942年1月12日陸上砲台の砲撃により沈没[1]
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除籍 |
1945年11月30日[1]
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性能諸元(竣工時→性能改善工事後)
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排水量 |
基準:525トン → 691トン 公試:590トン → 800トン
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全長 |
74.00m
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全幅 |
8.20m
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吃水 |
2.07m → 3.13m
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機関 |
ロ号艦本式缶(混焼)2基 3気筒3段膨張レシプロ2基 2軸、3,200馬力
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速力 |
20.0ノット → 19ノット
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航続距離 |
12ノットで2,600海里
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燃料 |
重油:25トン 石炭:53トン
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乗員 |
98名
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兵装 |
45口径三年式12cm砲 2門 40口径三年式8cm高角砲 単装1門 九一式爆雷投射機2基 爆雷36個(もしくは16個[2]) 掃海具、または五号機雷40個、または八九式機雷26個
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第十三号掃海艇(だいじゅうさんごうそうかいてい)は、日本海軍の掃海艇。第十三号型掃海艇の1番艦。
艦歴
1931年(昭和6年)12月22日、藤永田造船所で起工[1]。1933年(昭和8年)3月30日進水。同年8月31日に竣工。第十三号掃海艇と命名され、掃海艇に類別。
1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)まで日中戦争において華中及び華北の作戦に参加[1]。太平洋戦争では、南方侵攻作戦に参加[1]。1942年(昭和17年)1月12日、ボルネオ攻略作戦において同島タラカン泊地で掃海中、オランダ軍陸上砲台からの砲撃を受け沈没[1]。その後、第4予備艦となる[1]。1945年(昭和20年)11月30日に除籍。
歴代艇長
※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 艤装員長
- 磯久研磨 大尉:1933年5月20日 - 8月31日[3]
- 艇長
- 磯久研磨 大尉:1933年8月31日 - 1934年1月15日[3][4]
- 鈴木正明 大尉:1934年1月15日[4] - 1934年7月18日[5]
- 田口正一 大尉:1934年7月18日[5] - 1935年10月15日[6]
- 作間英邇 大尉:1935年10月15日[6] - 1937年6月1日[7]
- 田中忠政 大尉:1937年6月1日[7] - 1938年8月1日[8]
- 神山昌雄 少佐:1938年8月1日[8] - 1939年11月15日[9]
- 吉田謙吾 大尉:1939年11月15日[9] - 1940年10月15日[10]
- 富岡忠雄 大尉:1940年10月15日[10] - 1941年9月10日[11]
- 三宅忠義 大尉:1941年9月10日[11] -
脚注
参考文献
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掃海艇 |
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掃海特務艇a |
一等掃海特務艇ab | |
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二等掃海特務艇ab | |
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第一号型 | |
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戦利掃海特務艇 |
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- a. 1923年6月30日 「掃海艇」を「掃海特務艇」に改正
- b. 1933年5月23日等級廃止
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