第二次世界大戦時に実戦投入された電子装置この項目は第二次世界大戦時に実戦投入された電子装置の一覧である。 →詳細は「レーダー」を参照
→詳細は「レーダーの歴史」を参照
→詳細は「電波戦」および「en:Battle of the Beams」を参照
→詳細は「電子戦」を参照
アメリカ
イギリスイギリスではアメリカで気象学を学んだロバート・ワトソン=ワットが1923年に落雷で発生する電磁波を指向性を持ったアンテナを持った無線機で検出することで方位を測定する方式で雷雲探知機として実用化。これを発展させ航空機を電磁波による探知する方式として1935年に英国航空省に提案し、同年2月に極秘裏に実験開始、効果が認められ4月には特許を獲得した。これはその後1937年までにはイギリスの防空システムに成長した。
ドイツドイツでは1904年にクリスチャン・ヒュルスマイヤー (en:Christian Hülsmeyer)が火花式送信機とコヒーラー受信機により距離5kmの船舶の探知に成功し、船舶用レーダーとして実用化していた。これは英国において「テレモバイルスコープ(Telemobiloscope)」の名で特許を取得した[1]。
日本日本では1925年に、非常に容易に指向性を得ることが出来る、それまでのアンテナ技術と比較して画期的なアンテナ技術である八木・宇田アンテナが開発されたが、日本国内では全く反響がなく無視された[2]。この八木・宇田アンテナは欧米諸国では脚光を浴び、日本国外では軍事面での技術面での応用開発が急速に進んだ[1]。また、真空管によるマイクロ波発生装置のひとつであるマグネトロンの分野でも、1927年に岡部金治郎が世界初の分割陽極型マグネトロンを開発し国内で発表されたが、八木・宇田アンテナと同じく国内産業および軍部の無理解により兵器転用されなかった。八木アンテナと同じく、このマグネトロン技術も欧米で盛んにレーダー関連技術に利用されている。 1942年1月、マレー作戦シンガポールの戦いにおいて日本軍がイギリス領シンガポールに侵攻した際、イギリス軍の射撃管制レーダーであるGLマークIIを鹵獲、またここで発見した技術資料のノートに頻出する「YAGI」という単語で初めて八木・宇田アンテナの有効性に気づくこととなる[3]。また同じくフィリピン作戦でアメリカ領フィリピンのマニラを占領した際にアメリカ軍のSCR-268を鹵獲し、これは陸海軍共同で研究用およびコピー元として利用された[3]。 しかしながら日本軍、特に陸軍はレーダー自体に対し無理解だったわけでは決してなく、1930年代中頃に陸軍科学研究所が民間の日本無線(JRC)や日本電気(NEC)などとともに早期警戒用レーダー研究を開始し、1939年2月には連続波で航空機からの反射波を受信することに成功している。これらの実績をもとに開発された日本初の実用レーダー、超短波警戒機甲は量産され1940年から内地および外地に多数が配備された。さらに1941年には性能を大きく向上させた超短波警戒機乙を実用化、1942年半ばから大量配備し各地で相応の実績を上げている。陸軍は防空・防衛の観点からレーダーの開発に積極的であったが、技術導入経路がマイクロ波技術で英米に大きく遅れを取っていたドイツ経由であり、英国で見られた当初無指向性アンテナを用いていたVHFレーダーでの八木アンテナの実装や、PPIスコープの開発といった技術的な発展も戦中殆ど進まなかった事が致命的であった。 一方、レーダー開発においては柔軟で先進的であった陸軍と異なり、上層部の理解が低かった海軍では(陸軍が既にレーダーを研究中である)1936年に海軍技術研究所の谷恵吉郎中佐がレーダー研究の旨を上に進言するも、「闇夜の提灯」と一蹴され、同研究所の伊藤庸二中佐の下でマイクロ波パルスを利用した「暗中測距儀」の実験を独自に行っていたにすぎなかった。これは1940年10月、大観艦式のため東京湾鶴見沖に停泊中の空母「赤城」に海岸から10cm波を発射した結果、その反射波を捕らえることに成功したが、あくまで「レーダーらしき装置」にすぎないものであった[4]。 1940年12月出発の陸軍に続き、1941年3月に海軍遣独視察団(団長は野村直邦中将)に参加した伊藤中佐らも随員として参加。伊藤はドイツの先進的なパルスレーダーを調査し本国に報告、また同時期にはロンドン駐在の濱崎諒中佐もバトル・オブ・ブリテンにおけるイギリス軍のレーダー部隊の実戦投入と活躍を報告しその有効性を主張。これらの情報により同年5月に海軍はようやく本格的な対空警戒・索敵用レーダーの研究を開始した[5]。 1941年9月初旬、試作機をもって横須賀市野比海岸で対航空機実験が行われ、中型攻撃機を距離約100kmで探知することに成功。なお、この開発には陸軍と共にパルスレーダー(のちの「超短波警戒機乙」)を研究・開発していた日本電気の技術陣が協力している[6]。 開戦後の1942年5月、実験的に戦艦「伊勢」に対空警戒レーダー「二式二号電波探信儀一型」が搭載され、航空機単機を55km・僚艦の戦艦「日向」を20kmで探知、これは合格・採用となった。これと同時の実験として、マイクロ波を用いる対水上警戒レーダーである「仮称二号電波探信儀二型」が戦艦「日向」に搭載され、僚艦「伊勢」を35kmで探知したがこちらは不採用であり、長期にわたり手直しが続けられた結果1944年7月にようやく合格となった[7]。各艦への配備は「二式二号電波探信儀一型」は1942年6月以降、「仮称二号電波探信儀二型」は1944年7月以降となる。初期のレーダーは雨が降ると反射されほとんど役に立たなかったうえ指向性も不十分だったが、改良を続けることにより光学測距と遜色ない精度がでるようになり、事例は少ないが海軍においてもレーダー射撃による対艦攻撃が実践されている。「仮称二号電波探信儀二型」は1,000台以上が量産され、戦争末期に主力艦から駆逐艦まで多くの艦艇に装備されたが信頼性に欠ける代物でしかなかった。 海軍でも機上レーダーは幾つか開発され、対水上レーダーである「三式空六号無線電信機」(1942年8月完成)は相当数が量産され実戦に投入されたものの敗戦まで手直しは続いており、「月光」が搭載した対空レーダーも信頼性が低くこれは戦果に繋がることはなかった。さらに搭乗員・整備員が扱いに不慣れであったこともあり、「アテにできぬ」と飛行性能向上のために取り外されたこともあった[8]。 1943年には海軍も陸軍と同様にドイツから「ウルツブルク・レーダー」の技術指導を受け、1944年にデッドコピーを行い試作品を開発している。 当時の日本製電子兵器の弱点は、優良な銅素材の不足による真空管の耐久性の低さにあった。これにより、レーダーの高出力化、システムの小型化など全ての面で連合国に後れを取る事になった。耐震性の高い真空管を製造できなかった事から、基礎理論は単純なレーダー技術である近接信管の実用化も行えなかった。 日本陸軍太平洋戦争半ば以降の日本陸軍の警戒レーダー(電波探知機/電波警戒機/超短波警戒機)・射撃レーダー(電波標定機)の命名規則は以下の通りである。
更に開発レーダーごとに後ろに番号が付される。 電波警戒機
電波標定機
機上電波警戒機 船上電波警戒機 この他多数の各種レーダーが開発されている。 日本海軍日本海軍のレーダーの命名規則は以下の通りである。
それに完成順に一型、二型と型を割り振って命名、小改造の場合は改番号を末尾に付加した。 →詳細は「電波探信儀」を参照
ソ連
イタリア
その他
脚注
関連項目 |
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