竹内清明竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年3月21日[1]) - 1929年(昭和4年)12月24日[2][3])は、明治から大正時代の政治家、実業家、新聞経営者。衆議院議員(1期)。 経歴弘前藩士・竹内多作の長男として弘前城下(現青森県弘前市)に生まれる[4]。廃藩後、一家は南津軽郡浅瀬石村(現黒石市)へ移住する[4]。ついで黒石町に住んだ[4]。1877年(明治10年)召募巡査として西南戦争に参加し、その帰郷の際に政治家を志した[4]。1886年(明治19年)黒石の政治結社益友会の常任書記に任じた[4]。ほか、東津軽郡書記、戸長、山形村長、南津軽郡会議員、同参事会員などを歴任した[2]。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では青森県郡部から出馬し当選[2]。衆議院議員を1期務めた[2][4]。当時、青森県の政党人はほとんどが国民党に属していたが、後進県からの脱却を願い1911年(明治44年)国民党県支部を解散し、立憲政友会への入党を主導した[4]。1912年(明治45年)には政友会の青森県主幹となった[3]。政友会総裁の原敬からの信頼を得、五能線の開通[3]、岩木川の改修、青森築港、八戸鮫港修築、県農業試験場の誘致など多くの事業を進めた[4]。県政会の実力者として名を馳せ、「私設知事」とも呼ばれた[4]。 ほか、1886年(明治19年)南津軽郡牡丹平村(山形村を経て現黒石市)にリンゴ園を開き経営、1898年(明治31年)川内村宿野部(川内町を経て現むつ市)を開墾し稲作を行うなど殖産にも尽力した[4]。さらに財界でも活躍し、山形村信用販売購買利用組合長、北東証券社長、集成銀行取締役などを務めたほか、青森日報を創刊した[2]。 脚注参考文献
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