竹俣慶綱
竹俣 慶綱(たけのまた よしつな)は、戦国時代・安土桃山時代の越後国の武将、上杉氏の家臣で揚北衆の一人。竹俣清綱の孫。竹俣為綱の子。 生涯上杉謙信に従い永禄4年(1561年)の川中島の戦いでは、乗馬武具を失いながら奮戦し賞された。その後も本庄繁長の乱など、各地を転戦している。 謙信死後の御館の乱では上杉景勝を支持し、新発田長敦・斎藤朝信と共に武田勝頼との交渉にあたっている。 織田信長の侵攻で越中国魚津城の守備を任され、天正10年(1582年)魚津城の戦いでは上杉方の守将として奮戦したが、織田軍の柴田勝家に攻められ山本寺孝長・吉江宗信・中条景泰ら12将と共に討死した。自刃したのは本能寺の変で信長が死去した翌日のことであった。 子孫に米沢藩で上杉綱憲の傅役を務め、竹俣西家の祖となった竹俣義秀や上杉治憲(鷹山)の藩政改革で鷹山の右腕として活躍した竹俣当綱などがいる。 関連項目脚注外部リンク |