突厥碑文突厥碑文(とっけつひぶん、 英語: Old Turkic inscriptions、Göktürk inscriptions)とは、突厥文字を用いて書かれた古代テュルク語による東突厥の碑文である。 ![]() 概要突厥碑文と呼ばれる碑文はいくつかあり、その中でも有名なのが『トニュクク碑文』、『キョル・テギン碑文』、『ビルゲ・カガン碑文』である。『キョル・テギン碑文』と『ビルゲ・カガン碑文』はニコライ・ヤドリンツェフによってオルホン河畔のホショ・ツァイダムで発見されたため(1889年)、ともに『ホショ・ツァイダム碑文』と呼ばれる。一方の『トニュクク碑文』はクレメンツによってトラ河上流のバイン・ツォクトで発見されたため(1897年)、『バイン・ツォクト碑文』と呼ばれる。これら突厥碑文が重要視されるのは遊牧民族である突厥が、自らの文字で自らの言語を記したということであり、東アジアにおいては漢民族以外で日本のかな文字とともに古い。それまでの突厥ではソグド文字/ソグド語を使用していた[1]。 2013年にはモンゴル東部のドンゴイン・シレー遺跡でも碑文が発見されている[2][3] クリャシュトルヌィによる分類ロシア(当時はソ連)のセルゲイ・グリゴリエヴィチ・クリャシュトルヌィ(Klyaštornyj)は、中央ユーラシア各地に点在する古代トルコ・ルーン文字碑文を大きく3つに分類し、さらにその3つをそれぞれ7種、7種、6種に分類した。
このうち、いわゆる突厥碑文と呼ばれるものは、地域的には北モンゴル高原で、政治的には東突厥で、内容的には歴史的・伝記的テキストに属する碑文を指す[4]。 オルホン碑文1892年に『オルホン碑文』の名で未解読の碑文資料が公開されたことにより、この名称がある。1890年5月15日、フィンランド人の研究者アクセル・ヘイケル(Axel Olai Heikel)は帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクを出発し、シベリアのイルクーツク経由で8月16日にオルホン川畔に到着した。以前から謎の碑文があるという噂があり、それを調査するためであった。ヘイケルは現地で3つの碑文[5]を発見し、写真と拓本をとってヘルシンキへ持ち帰り、未解読のまま公開したのが『オルホン碑文』である。 ヘイケルの調査の後、ロシアの言語学者ワシリー・ラドロフ(ヴィルヘルム・ラドロフ)も現地に赴き、調査を行った。碑文の解読をめぐってフィンランドと帝政ロシアとの間で熾烈な競争となったが[6]、1893年に解読に成功したのはデンマークの言語学者ヴィルヘルム・トムセンであった[7]。 突厥碑文のうち、オルホン川流域にあるものを日本では一括して「オルホン碑文」(Orkhon inscriptions)と呼ぶが、これは必ずしも正確な命名とはいえない[8]。以下はオルホン碑文に該当する碑文。
突厥碑文一覧
脚注
参考資料外部リンク
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