種子島洋二
種子島 洋二(たなこじま ようつぐ[1] / たねがしま ようじ、1907年(明治40年) - 1977年(昭和52年)9月)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍中佐。 経歴鹿児島県出身。1927年(昭和2年)3月、海軍兵学校(55期)卒業。「比叡」、「葦」乗組を経て、「伊号第六十一潜水艦」の砲術長、航海長。 1935年(昭和10年)10月15日、伊号第六十一潜水艦航海長より峯風型駆逐艦7番艦「羽風」水雷長へ転任[2]。 1938年(昭和13年)3月31日、朝潮型駆逐艦5番艦「朝雲」竣工と共に、朝雲水雷長に補職[3]。同年6月11日、朝雲水雷長から第二連合航空隊参謀へ転任[4]。 同年12月10日附で、吹雪型駆逐艦13番艦「朝霧」水雷長[5]。 1939年(昭和14年)9月6日、種子島は朝霧水雷長の任を解かれ、横須賀鎮守府附となる(後任の朝霧水雷長は橋口百治中尉)[6]。10月20日、第十二号掃海艇長に補職[7]。 1940年(昭和15年)5月1日、第十号掃海艇長[8]。10月15日附で若竹型駆逐艦1番艦「若竹」駆逐艦長に補職される[9]。 10月20日、吹雪型7番艦「薄雲」艦長新谷喜一中佐が陽炎型駆逐艦14番艦「谷風」艤装員長に転じたため、種子島(若竹艦長)は駆逐艦2隻(若竹、薄雲)の駆逐艦長を兼務することになった[10]。 1941年(昭和16年)2月10日、舞鶴防備隊副長小山猛夫中佐が薄雲艦長を兼務することになり、種子島は兼務を解かれた(若竹駆逐艦長のみ)[11]。 4月10日、峯風型駆逐艦8番艦[要出典][12]「汐風」駆逐艦長[13]。 種子島は汐風駆逐艦長として太平洋戦争を迎えた。1942年(昭和17年)11月20日、佐世保鎮守府附被仰付[14]。12月15日、白露型駆逐艦3番艦「村雨」駆逐艦長[1]。 1943年(昭和18年)3月25日、「村雨」沈没に伴い横須賀鎮守府附被仰付[15]、4月25日 第一輸送隊長[16]。その後、海軍中佐に進級。第八十八警備隊司令。 1945年(昭和20年)8月、ブーゲンビル島にて終戦。1946年(昭和21年)3月、予備役編入。 戦後、佐世保時事新聞渉外部長、1948年上野運輸商会、門司、四日市、大阪各支店長、1970年豊福海運常務取締役。 コロンバンガラ島守備隊救出「セ」号作戦種子島は1942年(昭和17年)12月15日附で、第四水雷戦隊(司令官高間完少将)麾下の第2駆逐隊・白露型3番艦「村雨」駆逐艦長に補職される[1]。1943年(昭和18年)2月上旬、「村雨」はソロモン諸島に進出。3月5日、第2駆逐隊司令橘正雄大佐の指揮下、駆逐艦2隻(村雨、峯雲)はブーゲンビル島ブイン基地に輸送を実施する。帰路、ビラ・スタンモーア夜戦において米駆逐艦群のレーダー射撃攻撃を受け、2隻とも沈没。種子島は自力での20時間の漂流の末、コロンバガラ基地に収容された。 内地帰還、横須賀鎮守府附を経て第一輸送隊長に就任。当時米軍の猛攻の前に玉砕寸前だったコロンバンガラ島守備隊12000名を一隻の護衛艦艇もない状況の中で大発艇100隻で救出し、200km離れたブーゲンビル島に撤収させる「セ」号作戦を成功させた。 著書
脚注
参考文献関連項目 |