陽炎型駆逐艦(かげろうがたくちくかん)は、大日本帝国海軍(以下「海軍」)の一等駆逐艦[16][2]の艦級である。全19隻が建造された。一番艦である陽炎の沈没後、書類上不知火型駆逐艦(しらぬいがたくちくかん)と改定された[17]。
次級の夕雲型駆逐艦と合わせて甲型駆逐艦と呼ばれる[18]。
概要
1937年(昭和12年)からの第三次軍備補充計画(通称③計画)で15隻[19]、1939年(昭和14年)からの④計画で4隻が建造された[20]。軍縮条約の制限に縛られず、復元性能・船体強度にも留意した[14]日本海軍の艦隊型駆逐艦の集大成といえる駆逐艦[21]。第1艦(陽炎)が1939年11月に竣工[19]、最終艦(秋雲)が1941年(昭和16年)9月竣工[20]。太平洋戦争では新鋭駆逐艦として第一線に投入され、終戦まで生き残ったのは夕雲型19隻、前身となった朝潮型10隻と合わせて全48隻中雪風ただ1隻である[21]。
計画
1921年(大正10年)ワシントン軍縮条約後に建造された「吹雪型駆逐艦」は好評であり、竣工時は航続距離の短さだけに不満があった[22]。また後の性能改善工事で速力が34ノット程度(計画は37.5ノット)に落ちてしまった[23]。1930年(昭和5年)のロンドン軍縮条約では駆逐艦を含む補助艦艇の保有合計排水量と個艦排水量の制限を受けることになり、海軍は吹雪型より小型でほぼ同等の兵装を持つ「初春型駆逐艦」の建造をスタートさせる[24]。しかし復元性能や船体強度が十分でなく、性能改善工事で兵装の削減が行われ、ごく平凡な性能の駆逐艦となってしまった[25]。続く「白露型駆逐艦」は初春型の改良型であり、満足のいくものではなかった[26]。次に建造される「朝潮型駆逐艦」は軍縮条約破棄を見越して船体規模を吹雪型程度に戻して兵装も同等とし、復元性能や船体強度も留意されたが、35ノットの速力と18ノットで4,000カイリの航続距離(計画)は海軍として不満が残るものであった[26]。また竣工後に旋回圏が大きいために艦尾形状を改めたり[27]、タービン翼の欠損が見つかる(臨機調事件)などトラブルもあった[28]。このような経緯があり、海軍は軍縮条約あけには条約の制限に縛られない駆逐艦の建造に着手する[14]。
軍令部の当初の要求は速力36ノット以上、航続力18ノットで5,000カイリ、兵装は吹雪型と同等、吹雪型程度までの大きさ、というものだった[26]。この要求を全て満たした場合には公試排水量2,700トン、全長120メートル以上で機関出力60,000馬力の大型艦になってしまい、出力60,000馬力のタービンを新設計する必要もあった[26](ちなみに吹雪型は公試排水量2,500トン程度(性能改善工事後)、全長118.5m、出力50,000馬力[5])。そこで速度の要求のみ35ノットに落とし、公試排水量2,500トン、全長118.5m、出力52,000馬力に計画がまとめられた[26]。基本計画番号F49[5][26]。設計は牧野茂が行った[29]。
1937年(昭和12年)に第三次軍備補充計画(通称③計画)では2,000トン型駆逐艦(後の陽炎型)18隻の予算が承認され、15隻が建造された[19]。残り3隻は、同じ時に建造が決定していた大和型戦艦の架空排水量(③計画では3万5千トン[30]、④計画では4万トンの戦艦として計上[31])分の不足予算を確保するため、陽炎型3隻分(および伊一五型潜水艦1隻)を架空計上したためである[21](④計画では駆逐艦2隻分+潜水艦1隻分の予算を2隻に分配)。
1939年(昭和14年)の第四次軍備充実計画(通称④計画)では、2,000トン型の駆逐艦(甲)は16隻の予算が承認され、陽炎型は4隻建造(残りは夕雲型11隻、島風1隻、2隻は架空計上)[20]、最終的に陽炎型は計19隻(③計画15隻、④計画4隻)になった[2]。
従来の陽炎型は計18隻とされていたが、近年になって後述の夕雲型に類別されていた秋雲が艦橋・艦尾の形状や「なぜ夕雲型のうち秋雲だけが2番主砲の撤去が行われたのか?(夕雲型は2番主砲の撤去は行われていない)」という疑問から、陽炎型であることが判明したものである[32]。
艦型
基本的に朝潮型とほぼ同じ艦型になる[26]。友鶴事件、第四艦隊事件の教訓を完全に盛り込んだ設計となった[26]。
船体
船体は新たに線図が引き直された[26]。長さを抑えて、吃水を深く取り、肥痩係数※を若干大きくして重心の高さを抑えている[26]。艦尾水面付近には船体にナックルを付けて水流を抑え、抵抗を低くした[26]。朝潮型では船体強度を高めすぎた部分があり、本型では平板龍骨を厚くして船体縦強度と重心降下に留意する一方、他の部分は適正な板厚に抑えた[14]。
※ 船体の肥えた、痩せたといった度合いを示す係数[33]。方形肥痩係数 (Cb) と柱形肥痩係数 (Cp) があり[33]、朝潮型のCpは0.627、陽炎型は0.645[34]。
機関
主機は朝潮型の主機を改良した艦本式タービンで、機関出力は朝潮型の50,000馬力から本型で52,000馬力になった[14]。タービンは高圧・中圧・低圧・巡航の4つのタービンで構成されており、巡航タービンは1段減速(朝潮型)から2段減速(本型)に変更、重量軽減と燃費の向上を図っていた[14]。
缶(ボイラー)は朝潮型と同様、ロ号艦本式重油専焼缶(空気余熱器付)3基を搭載する[14]。朝潮型の蒸気圧力22kg/平方cm、蒸気温度300℃から本型では圧力30kg/平方cm、温度350℃にして出力増大をさせた[35]。天津風は蒸気圧力40kg/平方cm、蒸気温度400℃の缶を実験的に装備して好評であり、後に「島風」に採用された[21]。
なお竣工当初は速力が35ノットに達せず、推進器形状をいろいろ試して、35.5ノットを超えることができた[14]。
主砲
12.7cm連装砲は朝潮型と同じC型3基を装備した[14]。配置は吹雪型、朝潮型と同一で前部は艦橋前に1基、後部は背負い式に2基を搭載している[36]。大戦後半になり機銃増備のため2番砲は撤去された[21]。
魚雷
竣工時より九三式魚雷(酸素魚雷)を搭載した最初の駆逐艦になる[14]。発射管は白露型から装備する九二式61cm4連装発射管を2基装備[37]、発射管の形式は白露型・朝潮型の2型から陽炎型以降は4型となり[38]、防盾の形状が変更されている[39]。位置は朝潮型と同様に艦の中心線上、1番発射管は第1煙突直後の上構上、2番発射管は第2煙突後方の探照燈台と後部上構の間の上甲板上になる[37]。1番発射管の装備位置は朝潮型より低くなっている[14][37]。
予備魚雷の位置は変更された[14]。朝潮型では1番発射管の後方(2番煙突の左右)に予備魚雷は置いたが、この場合1番発射管から2番発射管の予備魚雷まで連続して魚雷を配置することになる[14]。本型では1番発射管の予備魚雷を発射管前方(1番煙突の左右)に置いて、被弾時の誘爆を防ぐために魚雷を分散した[14]。
機銃
竣工時は25mm機銃連装2基を第2煙突前の機銃台に設置した。
駆逐艦での25mm機銃搭載は「朝潮」が試験的に搭載(他の朝潮型は13mm連装機銃)[40]、それに続いて本型では計画から搭載を盛り込んだ初めての駆逐艦になる[14]。
1943年(昭和18年)から機銃の増備が実施され、連装機銃は同3連装と交換、艦橋前に25mm連装1基、2番主砲塔を撤去した跡に25mm3連装2基を装備、あ号作戦時には合計25mm3連装4基、同連装1基となった[21]。その後は単装機銃が増備された[21][41]。
レーダー
竣工時には電探(レーダー)を装備していない。1943年以降、前部マストを改造し対水上用22号電探1基を装備した[42]。電探室は艦橋後部、信号所の下に甲板室を増設して設置した[42]。あ号作戦時(1944年)には対空用13号電探も後部マストに装備している[41]。
対潜兵装
九三式探信儀(アクティブ・ソナー)、九三式水中聴音機(パッシブ・ソナー)を竣工時から装備[14]。また九四式爆雷投射機1基、爆雷投下台6基を装備した[14]。投下台は後に投下軌条2条に改められた[43]。爆雷は18個で単艦式大掃海具を降ろした場合は36個搭載できた[14][43]。
活躍
陽炎型駆逐艦と改良型の夕雲型駆逐艦は日本海軍の期待を担って使用されたが、建造意図になかった空母や輸送船団の護衛、ガダルカナル島やニュージョージア諸島を初めとするソロモン諸島への輸送作戦(鼠輸送)に従事する事となる。しかし艦隊決戦を主目的に計画/建造されたために対空・対潜能力が優れているとはいえず、それらの作戦で次々と失われていった。また米艦隊との水上戦闘でも、舞風や野分を始め、数隻が撃沈されている。スラバヤ沖海戦、第三次ソロモン海戦、ルンガ沖夜戦、クラ湾夜戦、コロンバンガラ島沖海戦、レイテ沖海戦など、連合軍艦隊に対して雷撃を行ったケースも稀ではない。最終的に戦没せずに終戦まで生き残ったのは上述の通り雪風のみである。
建造所
舞鶴海軍工廠で5隻(陽炎[44]、親潮[45]、天津風[46]、嵐[47]、野分[48])、浦賀船渠で6隻(不知火[49]、早潮[50]、時津風[51]、浜風、萩風[52]、秋雲[53])、藤永田造船所で5隻(黒潮[54]、夏潮[55]、浦風[56]、谷風[57]、舞風[58])、佐世保海軍工廠で2隻(雪風[59]、磯風[60])、神戸川崎造船所で1隻(初風)[61]が建造された。
同型艦
艦艇類別等級表による日本海軍の分類は、1番艦陽炎、2番艦不知火、3番艦黒潮、4番艦親潮、5番艦早潮、6番艦夏潮、7番艦初風、8番艦雪風、9番艦天津風、10番艦時津風、11番艦浦風、12番艦磯風(天津風(2代))、13番艦浜風、14番艦谷風、15番艦野分、16番艦嵐、17番艦萩風、18番艦舞風、19番艦秋雲である[2]。本型建造時、艦艇類別等級表への登録は命名時に行われたため[62]、艦番号と起工・進水・竣工の順番は一致しない。例えば、本型で最初に起工されたのは2番艦の不知火、また、8番艦の雪風は全19隻のうち3番目の竣工である。16番艦の嵐は起工・進水・竣工の総てで15番艦の野分より早い。ここでは、仮称艦番順に記す。
- 陽炎(かげろう/かげろふ)
- ③計画仮称「第17号艦」[63]。陽炎型1番艦[2]。1937年(昭和12年)9月3日、舞鶴海軍工廠で起工(陽炎型で3番目の起工)[44]。1938年(昭和13年)4月15日、3隻(陽炎、不知火、黒潮)は同時に命名[62]。同年9月27日、進水[44]。1939年(昭和14年)11月6日、竣工[44]。所属する第18駆逐隊は第二水雷戦隊だったが、第一水雷戦隊の指揮下に入り南雲機動部隊の護衛として真珠湾攻撃、ラバウル攻略作戦、セイロン島機動作戦などに従事。第二水雷戦隊の指揮下に戻ってからは第二次ソロモン海戦、ヘンダーソン基地艦砲射撃、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦、ルンガ沖夜戦などに参加。1943年(昭和18年)5月8日、黒潮・親潮と共に輸送作戦中ソロモン諸島クラ湾にて機雷に触雷し損傷、航行不能となったところをアメリカ軍機の攻撃を受け戦没した。同年6月20日、除籍された。
- 不知火(しらぬい/しらぬひ)
- ③計画仮称「第18号艦」[63]。陽炎型2番艦[2]。1937年8月30日、浦賀船渠で起工(陽炎型で最初の起工)[49]。1938年4月15日、命名[62]。同年6月28日、進水[49]。1939年12月20日、竣工[49]。開戦後の第18駆逐隊は第17駆逐隊・秋雲と共に南雲機動部隊直衛に従事し、真珠湾攻撃、ラバウル攻略、セイロン島機動作戦などに参加。1942年7月5日、キスカ島沖でアメリカ潜水艦グロウラーの雷撃で損傷し船体切断。舞鶴で修理を受け、1943年(昭和18年)11月戦線に復帰した。1944年(昭和19年)10月27日、レイテ沖海戦で損傷した鬼怒の救助に向かい、米空母艦載機の攻撃によりフィリピン諸島シブヤン海にて戦没した。第18駆逐隊司令と共に総員戦死した。同年12月10日除籍。
- 黒潮(くろしお/くろしほ)
- ③計画仮称「第19号艦」[63]。陽炎型3番艦[2]。1937年8月31日、藤永田船渠で起工(陽炎型2番目の起工)[54]。1938年4月15日、命名[62]。同年10月25日、進水[54]。1940年1月27日、竣工[54]。南方作戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦、ルンガ沖夜戦などに参加。1943年5月8日、陽炎・親潮と共にコロンバンガラ島沖にて触雷して戦没した。6月20日除籍。
- 親潮(おやしお/おやしほ)
- ③計画仮称「第20号艦」[63]。陽炎型4番艦[2]。1938年3月29日、舞鶴海軍工廠で起工[45]。同年11月29日、進水[45]。1940年8月20日、竣工[45]。南方作戦、第三次ソロモン海戦、ルンガ沖夜戦などに参加。1943年5月8日、陽炎・黒潮と共に輸送任務中ソロモン諸島方面で触雷損傷したのち、アメリカ軍機の攻撃により戦没した。1943年6月20日除籍。
- 早潮(はやしお/はやしほ)
- ③計画仮称「第21号艦」[63]。陽炎型5番艦[2]。1938年6月30日、浦賀船渠で起工[50]。1939年4月19日、進水[50]。1940年8月31日、竣工(夏潮と同日竣工)[50]。南方作戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦などに参加。1942年11月24日、ラエ増援作戦に従事中、米陸軍機の攻撃を受けニューギニア島東方沖にて戦没。1942年12月24日除籍。
- 夏潮(なつしお/なつしほ)
- ③計画仮称「第22号艦」[63]。陽炎型6番艦[2]。1937年12月9日、藤永田造船所で起工[55]。1939年2月23日、進水[55]。1940年8月31日、竣工(早潮と同日竣工)[55]。ダバオ攻略作戦などに参加。1942年(昭和17年)2月8日、アメリカ潜水艦S-37の雷撃で損傷。同月9日、黒潮による曳航中に浸水が拡大して沈没。1942年2月28日除籍。
- 初風(はつかぜ)
- ③計画仮称「第23号艦」[63]。陽炎型7番艦[2]。1937年12月3日、神戸川崎造船所で起工[61]。1939年1月24日、進水[61]。1940年2月15日、竣工[61]。南方作戦、スラバヤ沖海戦、南太平洋海戦などに参加。1943年11月1日、ブーゲンビル島沖海戦で重巡洋艦妙高と衝突損傷、翌2日、戦線を離脱し退避中に米水上部隊の攻撃を受け戦没した。1944年1月5日除籍。
- 雪風(ゆきかぜ)
- ③計画仮称「第24号艦」[63]。陽炎型8番艦[2]。1938年8月2日、佐世保海軍工廠で起工[59]。1939年3月24日、進水[59]。1940年1月20日、竣工[59]。第16駆逐隊・第17駆逐隊僚艦と共に太平洋戦争中の主要海戦に参加(南方作戦、スラバヤ沖海戦、ミッドウェー海戦《輸送船団護衛》、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦、ケ号作戦、ビスマルク海海戦、コロンバンガラ島沖海戦、マリアナ沖海戦《補給部隊護衛》、レイテ沖海戦、坊ノ岬沖海戦等)。唯一、ほぼ無傷で終戦まで生き残った。終戦後は復員輸送に従事していたが1947年7月6日、賠償艦として中華民国海軍へ引き渡され丹陽 (DD-12) となった。中華民国海軍の艦隊旗艦を務め、実戦にも参加したと見られる。1966年、台風による損傷および老朽化により解体された。
- 天津風(あまつかぜ)
- ③計画仮称「第25号艦」[63]。陽炎型9番艦[2]。1939年2月14日、舞鶴海軍工廠で起工[46]。同年10月19日、進水[46]。1940年10月26日、竣工[46]。南方作戦、スラバヤ沖海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦などに参加。1944年1月16日、輸送作戦に従事中、米潜水艦の雷撃で船体切断、航行不能となり漂流、その後駆逐艦朝顔に救助されサイゴン(現・ホーチミン市)へ曳航。仮艦首を装着し、1945年3月に戦線復帰する。ヒ88J船団として日本本土へ帰投中の4月6日、米陸軍機の攻撃を受け厦門湾にて擱座、自沈した。1945年8月10日除籍。この艦のみ、島風の機関のテストベッドとして高温、高圧缶を採用した。
- 時津風(ときつかぜ)
- ③計画仮称「第26号艦」[63]。陽炎型10番艦[2]。1939年2月20日、浦賀船渠で起工[51]。同年11月10日、進水[51]。1940年12月15日、竣工(浦風と同日竣工)[51]。南方作戦、スラバヤ沖海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、ケ号作戦などに参加。1943年3月3日、輸送船団護衛中に米陸軍機およびオーストラリア軍機の攻撃を受けビスマルク海にて大破、放棄されて漂流したのち3月4日に沈没した(ビスマルク海海戦)。1943年4月1日除籍。
- 浦風(うらかぜ)
- ③計画仮称「第27号艦」[63]。陽炎型11番艦[2]。1939年4月11日、藤永田造船所で起工[56]。1940年4月10日、進水[56]。同年12月15日、竣工(時津風と同日竣工)[56]。第17駆逐隊僚艦と共に太平洋戦争中の主要作戦に参加。レイテ沖海戦後、日本本土へ帰投中の1944年11月21日にアメリカの潜水艦シーライオンの雷撃で戦艦金剛と共に台湾海峡にて戦没した。第17駆逐隊司令と共に総員戦死した。
- 磯風(いそかぜ)
- ③計画仮称「第28号艦」[63]。陽炎型12番艦[2]。1938年11月25日、佐世保海軍工廠で起工[60]。8番艦「雪風」と共に建造される。1939年6月19日、進水[60]。1940年11月30日、竣工[60]。真珠湾攻撃以降、第17駆逐隊僚艦と共に太平洋戦争中の主要作戦に参加(真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦、ラビの戦い、南太平洋海戦、ケ号作戦、第一次ベララベラ海戦、第二次ベララベラ海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦等)。数多くの連合艦隊主力艦の沈没に遭遇した。1945年4月7日、沖縄水上特攻作戦で戦艦大和以下第二水雷戦隊各艦とともに出撃するが、二水戦旗艦矢矧の救援中に至近弾を受け航行不能となり、乗員移送後に雪風(佐世保工廠建造)の砲撃により海没処分となった。1945年5月25日除籍。
- 浜風(はまかぜ)
- ③計画仮称「第29号艦」[63]。陽炎型13番艦[2]。1939年11月20日、浦賀船渠で起工。1940年11月25日、進水。1941年6月30日、竣工。真珠湾攻撃以降、第17駆逐隊僚艦と共に太平洋戦争中の主要大規模作戦に参加(真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦、ラビの戦い、南太平洋海戦、ケ号作戦、クラ湾夜戦、コロンバンガラ島沖海戦、第一次ベララベラ海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦等)。物資輸送、護衛任務、人員救助においても活躍した。1945年4月7日、沖縄水上特攻作戦で大和以下第二水雷戦隊各艦と出撃、東シナ海にて米空母艦載機の攻撃を受け被弾し航行不能になったところを雷撃され、艦体が2つに折れて轟沈した。
- 谷風(たにかぜ)
- ③計画仮称「第30号艦」[63]。陽炎型14番艦[2]。1939年10月18日、藤永田造船所で起工[57]。1940年11月1日、進水[57]。1941年4月25日、竣工[57]。真珠湾攻撃以降、第17駆逐隊僚艦と共に太平洋戦争中の主要大規模作戦に参加。マリアナ沖海戦の直前、1944年6月9日、アメリカの潜水艦ハーダーの雷撃でタウイタウイ島にて戦没した。
- 野分(のわき)
- ③計画仮称「第31号艦」[63]。陽炎型15番艦[2]。1939年11月8日、舞鶴海軍工廠で起工[48]。16番艦「嵐」より約半年遅れての起工である[47]。1940年9月17日、進水[48]。1941年4月28日、竣工[48]。南方作戦、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦などに参加。1944年10月25日、レイテ沖海戦で米水上部隊の攻撃によりフィリピン南部のサンベルナルジノ海峡にて戦没した。救助していた重巡筑摩乗組員ごと総員戦死した。
- 嵐(あらし)
- ④計画仮称「第112号艦」[64]。。陽炎型16番艦[2]。1939年5月4日、舞鶴海軍工廠で起工[47]。1940年4月22日、進水[47]。1941年1月27日、竣工[47]。第4駆逐隊司令有賀幸作大佐の司令駆逐艦として、南方作戦、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦などに参加。1943年8月6日、ベラ湾夜戦で米水上部隊と交戦しソロモン諸島コロンバンガラ島沖にて戦没した。
- 萩風(はぎかぜ)
- ④計画仮称「第113号艦」[64]。陽炎型17番艦[2]。1939年5月23日、浦賀船渠で起工[52]。1940年6月18日、進水[52]。1941年3月31日、竣工[52]。南方作戦、セイロン島沖海戦、ミッドウェー海戦などに参加。1943年8月6日、ベラ湾夜戦で米水上部隊と交戦しコロンバンガラ島沖にて戦没した。
- 舞風(まいかぜ/まひかぜ)
- ④計画仮称「第114号艦」[64]。陽炎型18番艦[2]。1940年4月22日、藤永田造船所で起工[58]。1941年3月15日、進水[58]。同年7月15日、竣工[58]。南方作戦、セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦などに参加。1944年2月17日、米空母艦載機の攻撃を受けたのちに米水上部隊と交戦し、カロリン諸島トラック島沖にて戦没した(トラック島空襲)。総員戦死。
- 秋雲(あきぐも)
- ④計画仮称「第115号艦」[64]。陽炎型19番艦[2]。1940年7月2日、浦賀船渠で起工、1941年4月11日進水、同年9月27日竣工[53]。1944年4月11日、米潜水艦レッドフィンの雷撃でインドネシアザンボアンガ近海にて戦没した。
以上の艦の他に③計画では第32号艦、第33号艦、第34号艦の3隻が計画されているが、これは大和型戦艦2隻(大和、武蔵)の建造予算調達の為に計上された物で、実際に建造される予定は無かった。
駆逐隊の変遷
第十八駆逐隊
呉鎮守府籍の陽炎・不知火と朝潮型駆逐艦の霰・霞で編成。1935年(昭和10年)4月1日に解隊した磯風型駆逐艦4隻からなる先代に続く三代目の第十八駆逐隊である。
- 1939年(昭和14年)11月15日:編成。第二艦隊第二水雷戦隊。
- 1942年(昭和17年)7月5日:霰戦没、7月31日除籍。霞、不知火は大破。
- 1942年(昭和17年)7月15日:陽炎は第十五駆逐隊に転出[65]。
- 1942年(昭和17年)8月15日:解隊[66]。
- (1942年(昭和17年)8月31日:霞、不知火は特別役務駆逐艦に指定[67]。)
- (1943年(昭和18年)9月1日:霞修理完了、第九駆逐隊に転出[68]。)
- (1943年(昭和18年)11月15日:不知火修理完了、第九艦隊附属に転出。)
- (1944年(昭和19年)3月1日:不知火を第九駆逐隊に編入[69]。)
- 1944年(昭和19年)3月31日:再建(第九駆逐隊を改称。霞、不知火、薄雲)[70]。第五艦隊第一水雷戦隊。
- 1944年(昭和19年)7月7日:薄雲戦没、9月10日除籍。
- 1944年(昭和19年)10月27日:不知火戦没。霞は第一水雷戦隊附属に転出、12月10日不知火除籍。
- 1944年(昭和19年)11月15日:解隊[71]。残存した霞は第七駆逐隊に転出[71]。以後は第七駆逐隊の項に譲る。
第十五駆逐隊
呉鎮守府籍の親潮・早潮・夏潮で編成。後日、黒潮と陽炎を編入した。1939年(昭和14年)2月20日付で解隊した樅型駆逐艦4隻からなる先代に続く五代目の第十五駆逐隊である。
- 1940年(昭和15年)8月31日:編成(親潮、早潮、夏潮)。
- 1940年(昭和15年)11月15日:第二艦隊第二水雷戦隊。第十六駆逐隊より黒潮を編入。
- 1942年(昭和17年)2月9日:夏潮戦没、2月28日除籍。
- 1942年(昭和17年)7月15日:第十八駆逐隊より陽炎を編入[65]。
- 1942年(昭和17年)11月24日:早潮戦没、12月24日除籍。
- 1943年(昭和18年)5月8日:陽炎、黒潮、親潮戦没、6月20日除籍。
- 1943年(昭和18年)6月20日:解隊[72]。
第十六駆逐隊
呉鎮守府籍の黒潮、初風・雪風・天津風・時津風で編成。1940年(昭和15年)10月15日に若竹型駆逐艦4隻からなる先代が舞鶴鎮守府第三十二駆逐隊に転出した後に続く、三代目の第十六駆逐隊である。
- 1940年(昭和15年)1月27日:編成(黒潮、雪風)。
- 1940年(昭和15年)2月15日:初風竣工、編入(黒潮、初風、雪風)
- 1940年(昭和15年)11月15日:黒潮は第十五駆逐隊に転出(以後は上記第十五駆逐隊の項に譲る)。
- 1941年(昭和16年)7月25日:第二艦隊第二水雷戦隊(初風、雪風、天津風、時津風)。
- 1942年(昭和17年)7月14日:第三艦隊第10戦隊に転籍。
- 1942年(昭和17年)11月12日:天津風損傷、修理のため離脱(翌年2月修理完了、船団護衛任務の後、同年9月に原隊復帰)。
- 1943年(昭和18年)3月3日:時津風戦没、4月1日除籍。
- 1943年(昭和18年)11月2日:初風戦没、翌年1月5日除籍。
- 1944年(昭和19年)1月16日:天津風大破、修理のため離脱(翌年3月修理完了)。
- 1944年(昭和19年)3月20日:解隊[70]。雪風は第十七駆逐隊に転出[70]。以後は下記第十七駆逐隊の項に譲る。
- (1945年(昭和20年)4月1日:天津風は第一南遣艦隊附属へ転出。)
- (1945年(昭和20年)4月10日:天津風戦没、8月10日除籍。)
第十七駆逐隊
呉鎮守府籍の浦風・磯風・浜風・谷風で編成。戦争後半に雪風と初霜を編入した。1930年(昭和5年)6月1日に第6掃海隊に改称した海風型駆逐艦2隻、楢型駆逐艦2隻からなる先代に続く三代目の第十七駆逐隊である。真珠湾攻撃以降、太平洋戦争中の主要海戦に参加、終戦の日に解隊された。
- 1940年(昭和15年)12月15日:編成。
- 1941年(昭和16年)9月1日:第一艦隊第一水雷戦隊。
- 1942年(昭和17年)4月10日:第一航空艦隊第10戦隊に転籍。
- 1942年(昭和17年)7月14日:第10戦隊は第三艦隊に転籍。
- 1944年(昭和19年)3月20日:解隊した第十六駆逐隊より雪風を編入[70]。
- 1944年(昭和19年)6月9日:谷風戦没、8月10日除籍。
- 1944年(昭和19年)11月21日:浦風戦没、翌年1月10日除籍。
- 1944年(昭和19年)12月5日:第二艦隊第二水雷戦隊に転籍。
- 1945年(昭和20年)4月7日:磯風、浜風戦没、5月25日磯風、6月10日浜風除籍。
- 1945年(昭和20年)4月20日:第二水雷戦隊解隊。連合艦隊直属第31戦隊に転籍。第二十一駆逐隊より初霜を編入[73]。
- 1945年(昭和20年)7月30日:初霜戦没。
- 1945年(昭和20年)8月15日:解隊。雪風は第四十一駆逐隊に転出[74]。
- (1945年(昭和20年)10月5日:雪風除籍。)
第四駆逐隊
横須賀鎮守府籍の野分・嵐・萩風・舞風で編成。1941年(昭和16年)3月31日付で解隊した峯風型駆逐艦2隻(編成当初は4隻)からなる先代に続く五代目の第四駆逐隊である。
- 1941年(昭和16年)3月31日:嵐、萩風の2隻で編成[75]。
- 1941年(昭和16年)4月28日:野分を編入[76]。
- 1941年(昭和16年)7月1日:野分離脱、横須賀鎮守府練習兼警備駆逐艦[77]。
- 1941年(昭和16年)8月11日:第二艦隊第四水雷戦隊。
- 1941年(昭和16年)10月31日:野分、舞風を編入[78]。
- 1942年(昭和17年)7月14日:第三艦隊第10戦隊に転籍。
- 1943年(昭和18年)8月6日:嵐、萩風戦没、10月15日除籍。
- 1943年(昭和18年)9月15日:横須賀鎮守府海面防備隊より山雲を編入[79]。
- 1944年(昭和19年)2月17日:舞風戦没、3月31日除籍。
- 1944年(昭和19年)3月31日:2月10日に解隊した第二十四駆逐隊より満潮を編入[70]。
- 1944年(昭和19年)7月10日:解隊した第十駆逐隊より朝雲を編入[80]。
- 1944年(昭和19年)10月25日:野分、山雲、満潮、朝雲戦没、翌年1月10日除籍。
- 1945年(昭和20年)1月10日:解隊[81]。
第十駆逐隊
横須賀鎮守府籍の陽炎型秋雲と夕雲型駆逐艦の夕雲・巻雲・風雲で編成。1939年(昭和14年)11月15日付で解隊した吹雪型駆逐艦3隻からなる先代に続く四代目の第十駆逐隊である。終始第10戦隊に属して機動部隊の直衛をもくろんだが、南太平洋海戦以降は機動部隊と分離して外南洋の水雷戦に臨んだ。風雲・秋雲以外の同型艦は外南洋で失われ、代わりに朝潮型駆逐艦朝雲が加わって3隻体制で隊を維持したが、1944年4月に秋雲、同年6月に風雲が相次いで沈没し、解散した。
- (1941年(昭和16年)9月27日:秋雲竣工。第一航空艦隊第五航空戦隊。)
- (1941年(昭和16年)12月5日:夕雲竣工。横須賀鎮守府警備駆逐艦。)
- 1942年(昭和17年)3月14日:巻雲竣工。夕雲と合わせ編成[82]。
- 1942年(昭和17年)3月28日:竣工した風雲を編入[83]。
- 1942年(昭和17年)4月10日:第一航空艦隊第10戦隊。
- 1942年(昭和17年)4月15日:第五航空戦隊より秋雲を編入[84]。
- 1942年(昭和17年)7月14日:第10戦隊は第三艦隊に転籍。
- 1943年(昭和18年)2月1日:巻雲触雷、航行不能のため雷撃処分、3月1日除籍。
- 1943年(昭和18年)10月6日:夕雲戦没、12月1日除籍。
- 1943年(昭和18年)10月31日:第九駆逐隊より朝雲を編入[85]。
- 1944年(昭和19年)4月11日:秋雲戦没、6月10日除籍。
- 1944年(昭和19年)6月8日:風雲戦没、7月10日除籍。
- 1944年(昭和19年)7月10日:解隊[80]。朝雲は第四駆逐隊に転出[80]。以後は上記第四駆逐隊の項に譲る。
登場作品
映画
- 『駆逐艦雪風』
- 「雪風」の戦歴を、建造にも関わった1主計兵の視点から描いた映画作品。名を継いだ護衛艦「ゆきかぜ」が雪風として出演している。
- 『ゴジラ-1.0』
- 1945年から1947年の終戦直後が舞台の映画作品。「雪風」が登場する。終戦により史実通り連合国軍に接収されていたが、1947年の日本に襲来したゴジラを倒すための戦力として、吹雪型駆逐艦「響」、峯風型駆逐艦「夕風」、松型駆逐艦「欅」など共に返還され、ゴジラ駆除作戦「海神作戦」(わだつみ作戦)に参加。同作戦の主力兼司令塔の役目を担う。
- 『八十八年目の太陽』
- 浦賀船渠を舞台に、「浜風」の建造をストーリーの軸に置いた映画作品。劇中では艦名を一字変えた「はやかぜ」として登場し、貴重な造艦場面などを見ることができる。
アニメ
- 『ストライクウィッチーズ』
- 第1話、第2話で登場。天津風、雪風、浦風など同型艦6隻で赤城を護衛していたが、ネウロイの強襲により赤城と雪風以外は撃沈または行動不能にされた。全艦とも史実での2番主砲を25mm機銃に換装した対空兵装強化後の外観だが、塗装は戦時塗装前の状態であり、艦首両側面に駆逐隊番号、舷側にカタカナ表記の艦名が記されている。
- 『ハイスクール・フリート』
- 主人公たちの乗艦として、架空の同型艦である航洋直接教育艦「晴風(はれかぜ)[86]」(史実では大和建造のための架空計上で建造されなかった③計画計画艦の1隻という設定[87])が登場。機関に天津風と同じタイプの高圧缶を搭載している他、電探やソナーを最新のものに置き換え、TACANを搭載している。作中では舞風、浜風、天津風、時津風などの同型艦も登場する。
参考文献
- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X。
- 岩重多四郎『日本海軍小艦艇ビジュアルガイド 駆逐艦編』大日本絵画、2012年7月。ISBN 978-4-499-23085-8。
- (社)日本造船学会/編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2。
- 福田啓二/編『軍艦基本計画資料』今日の話題社、1989年5月。ISBN 4-87565-207-0。
- 福井静夫 編『-海軍造船技術概要別冊- 海軍艦艇公式図面集』今日の話題社、1987年12月。ISBN 4-87565-212-7。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 牧野茂、福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4。
- 雑誌『丸』編集部 編『写真日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』光人社、1990年5月。ISBN 4-7698-0460-1。
- 雑誌『丸』編集部 編『写真日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』光人社、1990年6月。ISBN 4-7698-0461-X。
- 「丸」編集部/編『軍艦メカ4 日本の駆逐艦』光人社、1991年8月。ISBN 4-7698-0564-0。
- 三神國隆「第1章 スラバヤ沖海戦とオプテンノール号」『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』光人社NF文庫、2005年1月(原著2001年)。ISBN 4-7698-2443-2。
- 森恒英『軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦』グランプリ出版、1995年1月。ISBN 4-87687-154-X。
- 学習研究社『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.19 水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡』学習研究社、1998年8月。ISBN 4-05-601918-5。
- 「駆逐艦 一般計画要領書 附現状調査 昭和十八年七月」。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。Ref.C08030110700。
- 『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030043100。
- 『昭和13年達/4月(2)』。Ref.C12070103700。
- 『昭和16年1月~4月内令1巻/昭和16年3月(3)』。Ref.C12070150000。
- 『昭和16年1月~4月内令1巻/昭和16年4月(5)』。Ref.C12070150500。
- 『昭和16年5月~8月内令2巻/昭和16年7月(1)』。Ref.C12070151900。
- 『昭和16年9月~10月内令3巻/昭和16年9月(1)』。Ref.C12070152800。
- 『昭和16年9月~10月内令3巻/昭和16年10月(4)』。Ref.C12070150600。
- 『昭和17年1月~3月内令1巻/昭和17年3月(2)』。Ref.C12070161300。
- 『昭和17年1月~3月内令1巻/昭和17年3月(3)』。Ref.C12070161400。
- 『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年4月(4)』。Ref.C12070162400。
- 『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(2)』。Ref.C12070162800。
- 『昭和18年1月~4月内令1巻/昭和18年3月(1)』。Ref.C12070175800。
- 『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月分(2)』。Ref.C12070164500。
- 『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月分(4)』。Ref.C12070164700。
- 『昭和18年5~6月 内令2巻/昭和18年6月(4)』。Ref.C12070178200。
- 『昭和18年9月~10月 内令4巻/内令昭和18年9月(1)』。Ref.C12070150400。
- 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年9月(4)』。Ref.C12070150700。
- 『昭和18年9~10月 内令4巻/内令昭和18年10月(5)』。Ref.C12070181500。
- 『自昭和19年1月~至昭和19年7月 内令/昭和19年3月(1)』。Ref.C12070194700。
- 『昭和19年1月~7月 内令/昭和19年3月(5)』。Ref.C12070196900。
- 『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年7月』。Ref.C12070195500。
- 『昭和19年9月~12月秘海軍公報号外/11月(3)』。Ref.C12070497900。
- 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/4月(3)』。Ref.C12070504700。
- 『昭和20年1月2日 昭和20年8月30日秘海軍公報/昭和20年8月(2)』。Ref.C12070530000。
- 『昭和13年12月25日現在 10版 内令提要追録第4号原稿/巻1 追録/第3類 定員(6)』。Ref.C13071977300。
- 『昭和13年12月25日現在 10版 内令提要追録第4号原稿/巻1 追録/第6類 機密保護』。Ref.C13071978400。 (艦船要目公表範囲)
- 『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護』。Ref.C13071997700。
- 『昭和16年12月31日現在 10版 内令提要追録第10号原稿巻1/追録/第3類 定員(4)』。Ref.C13072001100。
- 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/巻3追録/第13類艦船(1)』。Ref.C13072003500。
- 『昭和19年10月31日現在 10版 内令提要 巻1上/第3類 定員(12)』。Ref.C13072048900。
脚注
注釈
出典
ウィキメディア・コモンズには、
陽炎型駆逐艦に関連するメディアがあります。
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二等駆逐艦 | |
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三等駆逐艦 |
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計画のみ | |
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貸与艦 | |
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