福井女子中学生殺人事件
福井女子中学生殺人事件(ふくいじょしちゅうがくせいさつじんじけん)は、1986年(昭和61年)3月19日に日本の福井県福井市豊岡二丁目にあった市営住宅で発生した殺人事件である[1]。自宅で留守番中の女子中学生(当時15歳:市立光陽中学校3年生)が何者かに殺害された事件で[1]、福井女子中学生殺害事件[2]とも呼称される。 刑事裁判では福井市在住の男性Mが被告人として起訴されたが、Mは一貫して容疑を否認し、1990年(平成2年)9月26日に第一審の福井地方裁判所はMに無罪判決を言い渡した[2]。しかし名古屋高等裁判所金沢支部は1995年(平成7年)2月9日に原判決を破棄自判し、Mを犯人と認定した上で懲役7年の刑に処す逆転有罪判決を言い渡し、1997年(平成9年)に最高裁で有罪判決が確定した[2]。 Mは有罪判決確定後も冤罪を訴え、服役後の2004年(平成16年)に名古屋高裁金沢支部へ再審請求した[2]。2011年(平成23年)11月30日に名古屋高裁金沢支部は再審開始を決定したが[2]、検察官が異議申し立てしたところ、2013年(平成25年)3月6日、名古屋高等裁判所本庁は一転して再審開始取り消しの決定を行った[3]。2014年(平成26年)12月10日、最高裁第二小法廷がMの特別抗告を退け、再審請求を棄却する決定が確定した。 Mは2022年(令和4年)10月14日に第二次再審請求を行い、2024年(令和6年)10月23日に名古屋高裁金沢支部は再び再審開始を認める決定を出し[4]、同28日に検察官が異議申し立てを断念したため、再審開始決定が確定した。今後再審公判が開かれる予定[5]。 日本国民救援会、日本弁護士連合会が支援している再審事件である。 概要事件現場は福井県福井市豊岡二丁目にあった市営住宅東安居団地6号館2階の一室で[1]、犯行時刻は1986年3月19日21時40分ごろとされる[6]。被害者は、同日卒業式を終えた後に1人でいた市立光陽中学校3年生の女子生徒A(当時15歳)で[1]、何者かによって2本の文化包丁で顔・首・胸を滅多突きにされたり、ガラス製灰皿で額や後頭部を殴られたり、電気コードで首を絞められたりして殺害されていた[6]。なお、以上の凶器はいずれもA宅にあったものである[6]。被害者Aは両親が6年前に離婚しており、事件当時はスナックホステスの母親と2人暮らしだった[1]。事件当日の19日、Aは午前中に母親とともに卒業式に出席したが、母親は帰宅後の18時に出勤したため、1人で留守番していたところを襲われた[1]。事件は20日1時ごろ、帰宅した母親が自宅で娘の他殺体を発見したことで発覚した[1]。 福井県警察はAが毎日一人で留守番していたことなどから、顔見知りによる殺人事件とみて、福井警察署に捜査本部を設置して捜査したが[1]、物的証拠がほとんどなく、捜査は難航していた。しかし事件発生から1年後の1987年(昭和62年)3月29日[7]、福井県警は毒物及び劇物取締法で逮捕されていた男性Mを殺人容疑で逮捕した。きっかけは、事件発生から約1年後に得られた5人の目撃証言、事件現場に落ちていたMの毛髪に加え、未決勾留中の元暴力団組員の証言が採用された。 裁判経過第一審福井地方裁判所で開かれた第一審の公判で、被告人Mは懲役13年を求刑されたが、福井地裁(西村尤克裁判長)は1990年(平成2年)9月26日、殺人についてはMを無罪とする判決を言い渡した。 この事件の裁判では、第一審終盤の公判で証言者の一人がMを見たとする証言を覆すなどしていて、公判では、6人の供述の信用性、現場から採取されたとする毛髪について、Mのアリバイの有無が主に争われた。 福井地裁は、目撃証言について、重要な点で変異していること、事件後時がたってから行われたこと、供述を裏付ける物証がないとして信用性がないとした。また、逮捕のきっかけとなった暴力団組員の証言については、自らの量刑や、代用監獄での待遇を良くしてもらう意図があった可能性があるとした。さらに、犯行現場に残されていた2本の毛髪については、個人識別が絶対的なものではないとして証拠価値を否定した。弁護側が主張していたアリバイ成立については認めなかったものの、これらから、「犯罪の証明はない」と結論づけて、判決は、殺人について無罪、毒物及び劇物取締法違反については有罪(罰金3万円)とした。検察は、これを不服として控訴。 控訴審・上告審控訴審の名古屋高等裁判所金沢支部は1995年(平成7年)2月9日、原判決を破棄自判して被告人MをA殺害犯と認定し、Mを懲役7年の実刑に処す逆転有罪判決を言い渡した。 小島裕史裁判官(他松尾昭彦、田中敦)は判決で、犯行現場でMを見たという目撃証言は十分信用でき、暴力団組員の供述についても調書が作成された時点では、覚醒剤取締法違反容疑の取り調べは終了していたとして、信用性を認定。毛髪についても、弁護側、検察側のいずれかが信用できるという判断は下せないとしながらも、検察側の鑑定ではMが現場にいた1つの資料になりうるとした。しかしMが犯行当時は心神耗弱の状態にあったことを考慮して、求刑より軽い懲役7年とした。弁護側は上告した。 最高裁判所第二小法廷の大西勝也裁判長(根岸重治、河合伸一、福田博裁判官)は、1997年11月14日に、上告の理由とは当たらないとして、弁護側の上告を棄却する決定を出したため、Mの有罪が確定した。 支援再審請求第一次再審請求2004年7月15日 名古屋高裁金沢支部に再審請求の申し立てが行われる[8]。 弁護団が求めた未開示証拠の開示については、検察が当初拒んでいたものの、異例ともいえる名古屋高裁による二度の勧告により、2008年に殺害現場の状況写真29通、捜査段階の供述調書など125点が開示された。この証拠は、当時有罪判決を受けた裁判に提出されていれば、判断が変わった可能性があるとして、弁護側から証拠隠しと指摘されている。 再審請求では、
などが争点とされた[9]。 弁護側は、物証がない中で当時の事件で有罪の根拠となった5人の供述についての矛盾を指摘している。再審を求める裁判では、事件当日に被告に会ったとして二審での有罪判決の決め手となった証言をした知人男性が、「会っていない」と証言を翻した[10]。 また、再審請求の過程において、被告の後輩に当たる男性が、事件の捜査本部の置かれていた福井署で事情聴取を受けた際、別の事件で拘留されていた元暴力団員から、被告の事件への関与を認めるよう恫喝されたと証言したことが、毎日新聞で報じられた。この元組員は、被告から「犯行を打ち明けられた」と証言したり、知人女性宅に匿ったりしたとされていた。元組員は、捜査員から、証言すれば有利な取り計らいをすることを示唆されていたとされている[11]。 また、1987年4月17日付で作成された供述調書について、被告が取り調べに当たった当時の巡査部長から「空想で話せ」と要求され、被告が応じたものである、と弁護側は主張している[12]。 2011年11月30日、名古屋高等裁判所金沢支部(伊藤新一郎裁判長)にて、本件の再審を開始する決定が行われた[2][13]。殺人事件において再審開始の決定が出たのは、再審無罪判決が確定した足利事件以来[要出典]。 この決定に対し、検察側は異議申し立てを行い、異議審理の結果、2013年3月6日に名古屋高裁刑事第1部(志田洋裁判長)が再審開始取り消しの決定を言い渡した[3]。その後、2014年12月10日、最高裁第二小法廷が特別抗告を退け、再審開始を認めない決定をした [14]。 第二次再審請求2022年10月14日にMが第二次再審請求を行なった。Mの目撃証言の信用性が争点となっている。当初検察は証拠開示に消極的であったが、裁判所が再検討を促したことで、捜査報告書など287点が開示された。新たに開示された証拠では、警察官が当初、「見え透いたうそを述べている」などと、証言の信用性に疑問を抱いていたことが明らかとなったとされた[15]。 2024年3月には、過去の裁判で証人として証言した知人についての証人尋問が行われ、警察官に過去に自らが犯した事件を立件しないことを約束されて、嘘の証言をしたと述べた[15]。 2024年10月23日、名古屋高等裁判所金沢支部(山田耕司裁判長)は、再審開始を決定した[4]。 決定では、まず最初に証言した知人の証言内容を「自分が捜査機関にとって有力な情報源であることをよく認識した上で、証言を取り引きの材料にしてみずからの刑事事件で刑を軽くしてもらうなどの利益を得ようとする態度が顕著だ」として信頼できないと判断、確定した有罪判決は、「この証言にはらむ危険性を無視していたとの批判を受けてもやむをえない」として、厳しく批判した。そして他の知人の証言も警察官の誘導に乗った疑いがあると指摘し、信頼できないとし、結果、Mが「犯人だと認めることができ」ないとして、無罪を言い渡すべき明らかな証拠が発見されたものとして再審開始を決定した[4]。 そして決定中では、Mを見かけた知人が見たと証言したテレビ番組のシーン[注釈 1]が、実際の事件日には放送されていなかった[注釈 2]ことを検察官が公判中に把握していたことが再審請求審で新たに開示された証拠で明らかになったことを受けて、公判中の検察官の対応につき、「公益を代表する検察官としてあるまじき、不誠実で罪深い不正な行為といわざるをえず、適正な手続きを確保する観点から到底容認することはできない」と厳しく批判した[4]。 再審開始決定を受け、検察官の対応が注目されていたが、異議申し立て期限である2024年10月28日、名古屋高等検察庁金沢支部が異議申し立ての断念を発表し、これにて再審開始決定が確定し、再審公判が開かれることとなった[5]。 脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |