神谷守孝

神谷 守孝(かみや もりたか、? - 寛永9年6月3日1632年7月19日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将加賀藩前田家の家臣。幼名は左介、通称は左近、信濃守。妻は中川光重の娘・献珠院(前田利家の外孫)。

生涯

尾張国国人。姓は源[1]天正20年(1592年)、利家の近習となり、文禄の役肥前国名護屋城に従軍する。利家の末子・前田利貞の養育をまかされる。利家死後は、剃髪して高野山に上り、利家の墓の建立を任される。大坂の陣に参加し、12000石を給され人持組頭となった。寛永5年(1628年)、丹波守。

寛永9年(1632年)に死去。婿養子の神谷長治(式部、横山長知の三男)がその跡を継いだ。

系譜

脚注

  1. ^ 神谷守孝伝 - 加賀藩史稿 三 [第五巻]

参考文献

  • 「加能郷土辞彙」
  • 「金沢古蹟志」神谷信濃守伝[1][2]