石清尾八幡宮
石清尾八幡宮(いわせをはちまんぐう)は、香川県高松市宮脇町一丁目にある神社。 通称「おはちまんさん」「いわせをさん」と呼ばれ、高松[注釈 1]の氏神、高松総鎮守として崇敬を集めている。境内には香川県神社庁が所在している。 概要祭神は足仲彦命(仲哀天皇)、誉田別命(応神天皇)、息長帯姫命(神功皇后)[1]。 高松市中心市街地の南西部、石清尾山の裾野に鎮座している。高松の氏神だけあり、初詣などには多くの参拝客が訪れるほか、市立祭や例大祭では参道から御旅所まで続く八幡通り約670mを歩行者天国にして露店が立ち並ぶなど、高松市内の神社祭事でも最大規模の祭りとなる。 歴史伝説による由緒は918年(延喜18年)、八幡大神が讃岐国香川郡野原庄(現・高松市)の赤塔山(現・石清尾山)に現れて、これを祭ったものと伝えられている。もう一つの由緒は、当時の国司が京都の石清水八幡宮の分霊を亀ノ尾山上に祭ったというものである。社名も石清水と亀ノ尾の名を併せて石清尾八幡宮と称したとされる。 石清尾山には、多数の古墳からなる石清尾山古墳群があり、この地域が早い時代から栄えていたことが窺える。 1309年(延慶2年)、大般若経と五部大乗経が納められる。この大般若経は荘園の鎮守などに供えられるものであり、古くから石清尾八幡宮が野原荘の鎮守として崇敬されてきた証拠となるものである。 南北朝時代、室町幕府管領の細川頼之は細川清氏との合戦に臨み、石清尾八幡宮に臣下を派遣し、戦勝祈願を行う。1363年4月、合戦に勝利した頼之は戦勝奉賛祭を行い、社殿の改築や武具の奉納などを行った。この時に行われた市が頼之の呼び名「右馬頭(うまのかみ)」の名にちなみ、「右馬頭市」と呼ばれるようになる。この右馬頭市は現在も続く祭事の一つ、市立祭(いちだてさい)の起源である。 1588年、豊臣政権下で讃岐国一国の領主となった生駒親正は野原の地を本拠と定め、この地を高松と改称し、高松城(玉藻城)を築城するとともに、石清尾八幡宮を府城の鎮護として社領24石を寄進した。 生駒騒動で生駒氏が讃岐を去った後、水戸徳川家から高松藩主になった松平頼重は、1642年と1666年の二回にわたり、石清尾八幡宮の大造営を行う。それまで山の上にあった社殿を今の場所に移したとも、または現在の場所に既にあったので移動せずに工事を行ったとも言われ、二つの説がある。その後頼重は当社を高松城下町の大社・氏神と定め、多数の宝物や放生会の規定、社領202石を寄進する。現在の境内の姿と、絢爛豪華な御神輿行列は、ほぼこの時代に完成する。 以降の歴代藩主も当社を崇敬し、宝物や灯籠を寄進している。 1872年、県社に列格。 1986年、火災により本殿と上拝殿が焼失したが1989年にそれぞれ改築され、下拝殿なども同時に修復された。 1998年、氏子の有志により「八幡神交会(はちまんしんこうかい)」が発足する。 2007年、前年より行われていた境内の改修工事が竣工。拝殿前の石段の傾斜緩和や参道の石畳の張り替え等が行われた。 2018年、創建より1100年を迎えたことにより、「創祀千百年祭」を斎行する。稚児行列や奉祝奉賛行事、舞楽の奉納、餅投げなどが行われた。 境内
末社
境外
祭事・神事
御朱印常時授与 ・石清尾八幡宮 ・蜂穴神社 ・道祖神社 毎年正月、市立祭、七夕、秋季大祭時には期間限定の御朱印授与。 髪授神祠の御朱印は、11月~12月の例祭近くに授与予定。 交通アクセス脚注注釈出典
参考文献・『中世讃岐と瀬戸内世界』市村高男・上野進・渋谷啓一・松本和彦遍、岩田書院、2009年 ・『創祀千百年記念誌 石清尾八幡宮』田中健二著、石清尾八幡宮、美巧社、2020年 関連項目外部リンクウィキメディア・コモンズには、石清尾八幡宮に関するカテゴリがあります。
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