石塚尊俊
石塚 尊俊(いしづか たかとし、1918年9月21日[1] - 2014年4月16日[3])は、日本の民俗学者、神官[14]。島根県を本拠地に、当地域を中心とした地方の民俗学を牽引した[15]。 生涯1918年(大正7年)、島根県大津村[2](2006年現在の出雲市大津町石塚村[1])[注釈 1]の社家の長男として生まれる[16]。少年時代は簸川郡大津村小学校[17](現・出雲市立大津小学校)、島根県立大社中学校[18](現・島根県立大社高等学校)に通った。中学時代は理数科が苦手であった反面、歴史に興味をもち、郷土史の作成、出雲市長廻谷横穴墓群の調査などをおこなった[19]。 1936年(昭和11年)、 國學院大學神道部に進学するにあたって上京する[20]。小学校教員になるために師範学校へ行かせようとする親に上京を反対されたものの、伯母の助言で「伯母の監督つき」の条件のもと許されている[21]。神職養成のための講義・実習は退屈なものが多い一方で、教員免許を得るための歴史学・倫理学の講義や一般教養の国文学の授業を熱心に受講した[22]。このころ、退屈な講義の時間に図書館で読んでいた加藤玄智の『神道の宗教発達史的研究』は石塚に雑神への興味を引き起こし、後述の柳田国男の講演とともに石塚が民俗学を志すきっかけの一つとなっている[23][24][25]。1940年(昭和15年)卒業[4]。 卒業後、島根県立安来農業学校(現・島根県立安来高等学校)、島根県立今市高等女学校(現・島根県立出雲高等学校)に歴史教員としてとして赴任する[26][4]。1944年(昭和19年)6月に太平洋戦争に際して教育のため召集されたのち7月末に中国に派遣される[27][28]。終戦は杭州で迎えた[29][30]。 1946年(昭和21年)3月に復員すると、戦後になって日本の伝統や日本人の価値観が急速に変容しているのを目の当たりにする[31][32]。民俗学の将来について不安になり、4月8日柳田のもとを訪ねる[33]。石塚自身はこの日をもって入門の日としている[34]。しかしこの直後、日中戦争勃発以降に國學院大學で神道教育を受けていたため、教職追放を受けることになる[35][36]。学校を追われた石塚は、数か月間の無収入の時期を経て[37]1947年(昭和22年)島根県衛生課防疫指導員の仕事を得[4]、また同年柳田が設立した民俗学研究所の研究員となった[38][39]。 この間、1954年に山陰民俗学会を発足し、実務を担当した[3](→#山陰民俗学会)。1975年から1999年には同学会の代表理事(会長に相当)を務め、それ以降は名誉会長に就いていた[3]。 1955年(昭和30年)に出雲市立第一中学校教諭として教職に復帰する[4]が、1962年(昭和37年)からは島根県教育委員会に籍を置き、文化財行政に携わる[40]。1975年(昭和50年)に定年退職し、1976年(昭和51年)「里神楽の成立に関する研究─主して中国、四国、九州地方において─」[41][注釈 2]で國學院大學博士課程単位修得(文学博士)[4]。これを改題して出版した『西日本諸神楽の研究』[7]で1980年(昭和55年)第19回柳田國男賞を受賞[11][13]。これに前後して、1978年(昭和53年)には「民俗学研究と文化財保護に尽力」の功績で第35回中国文化賞を受賞している[12][11]。 1983年(昭和58年)から1991年(平成3年)まで広島修道大学教授[4]を務めたほか、島根大学でも非常勤講師として教鞭を執っている[42]。 2014年(平成26年)、老衰で逝去。享年95歳[42][11]。 人物
2つの「山陰民俗学会」飯塚純平主宰民俗学会石塚が教職追放を受けていたころ、小学時代の同級生であった飯塚純平という人物が出版事業を興し、「山陰民俗学会」を名乗った[53]。地方における民衆の歴史に関する本を出版する会社として、石塚の執筆した『常民史に立つ日本婦道』と『こひに居る話』を発売したものの、1947年(昭和22年)2月ごろから東京の出版社が急速に復興するにともなって立ち行かなくなり、廃業した[54]。 島根民俗通信部元々、島根県には1938年(昭和13年)牛尾三千夫ら石見部の研究者を中心に組織された島根民俗学会とその機関誌である『島根民俗』が存在した[55]。しかし島根民俗学会は戦争のために活動を中断していたので、これを復活させたいと考えた石塚は1947年(昭和22年)牛尾に連絡し、島根県内の他の会員とともに話し合った結果、『島根民俗』の復刊が決まった[56]。ただし「あくまでも本格的復活までのつなぎ」であり、雑誌名は『島根民俗通信』、発行所名は島根民俗通信部として、出雲で石塚が主宰することになった[57]。 この発行所名に関して、石見部の会員から「島根民俗学会」を名乗れば良いのではないかという連絡を受けた石塚はその通りに「島根民俗学会」と彫った判を作成した[58]。しかし牛尾の立場としては、学会事務所はあくまでも石見部の牛尾のもとにあり、石塚のもとにあるのは通信部であるから、石塚方が「島根民俗学会」と名乗ることは認められなかった[59]。この確執の顛末として1948年(昭和23年)、『島根民俗通信』は第8号(特集号)をもって終刊、通信部は閉鎖に至った[60]。このころ石塚と牛尾は、学会主催の講演会の開催地に関しても揉めていた[61]。 出雲民俗の会島根民俗学会は牛尾が石見部で引き継ぐこととなり、他方の出雲部の会員たちは新たな学会を創設することになった。こうして生まれたのが出雲民俗の会である[62]。機関誌は『出雲民俗』で、第1号が1949年(昭和24年)に刊行された[63]。石塚の事情で1951年(昭和26年)に1年間の休刊を挟んだが、翌年から季刊で復刊した[64]。 山陰民俗学会1953年(昭和28年)、出雲以外の研究者も入会しやすいようにと鳥取県下の会員が提案したのをきっかけとして、翌1954年(昭和29年)に出雲民俗の会は山陰民俗学会に改称された[65]。初代代表委員(会長に相当)は岡義重[66]。機関誌は『山陰民俗』とし、当初は季刊で発行されていたが、1859年(昭和34年)以降は年4回のうち1回を専門誌『山陰民俗』、3回は普及誌『伝承』を発行することになった[67]。なお、このころになると石塚と牛尾の確執は解消していた[68]。 しかし再び石塚の時間的余裕がなくなり、『山陰民俗』・『伝承』ともに1966年(昭和41年)から10年間、休刊することとなったが[69]、1975年(昭和50年)に活動を再開した[70]。 1993年(平成5年)、機関誌を年1回刊行の『山陰民俗研究』とすることが決定した[71]。 2015年(平成27年)に第50回柳田国男賞が贈呈されている[72]。 関連人物
著書石塚は単著39をはじめ、数多くの著作を世に出した[42][注釈 15]。以下は (石塚 2006) の「著書・編著一覧」の項および (浅沼 2019) の「主要著書」「監修・編集」の項を参考に、一部情報を修正したものである。 『常民史に立つ日本婦道』、『こひに居る話』の出版者は正確には「山陰民俗学会」であるが、戦後に石塚が発足させた山陰民俗学会と区別するために (石塚 2006) の表記に従い「飯塚純平主宰民俗学会」とする(→#2つの「山陰民俗学会」)。 単著
編著・共著その他
論文脚注注釈
出典
参考文献石塚の単著については#単著を参照。
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