石井紘基
石井 紘基(いしい こうき、1940年〈昭和15年〉11月6日 - 2002年〈平成14年〉10月25日[1])は、日本の財政学者、政治家。民主党などで衆議院議員(3期)、総務政務次官(羽田内閣)として活動。国会で政府支出の無駄遣いに厳しく切込み、とくに特別会計について詳細な研究を行った[2]。統一教会、オウム真理教等のカルト宗教問題にも取り組んでいた[3]。 来歴生い立ち東京市世田谷区代沢で、明治薬科大学及び女子栄養大学の教授を歴任した父・嘉四郎と実践女子学園教員の母・緯子の長男として生まれる[1][4]。世田谷区立池之上小学校、成城学園中学校高等学校卒業。中央大学法学部に入学、安保闘争に参加[1]。国会に突入するデモ隊の先頭にいた石井は、ほぼすべての国会議員が逃げ出す中で、一人デモ隊の目の前まで出て行き騒乱の最前線に出向き警官を抑えようとする日本社会党書記長の江田三郎を見、このことを契機として政治家を目指した[1]。 政治活動開始江田三郎に傾倒し、彼の後を追い、社会党の活動に参加した[5]。中央大学自治会委員長になる等、学生運動のリーダーとなった。早稲田大学大学院法学研究科を経て、1965年に社会党本部勤めからモスクワ大学大学院に留学[1]、留学中に出会ったナターシャと結婚[1]。 大学院を修了すると1971年に帰国し、江田三郎の息子の江田五月の秘書となる。江田五月とは学生運動時代からの友人である[5]。1977年に三郎が社会党を離党したとき、いち早く馳せ参じた。同年の三郎の急死した際に五月に「親父の後を継げ」と迫った。そして、後継の参議院議員候補となった五月を傍らで手助けし、五月の秘書となる[5]。1978年に菅直人らと社会民主連合を結成し、事務局長となる。社民連で公認を受けた最初の選挙である1990年の第39回衆議院議員総選挙では落選した[5]。 国政入り1990年の第39回衆議院議員総選挙で落選後、次回の衆議院議員選挙でも社会民主連合の公認候補と決定していたが、1992年秋に日本新党へ移籍。1993年、第40回衆議院議員総選挙で日本新党から旧東京3区にて立候補し、初当選[1][5](同区で無所属・新生党推薦の栗本慎一郎も初当選)。移籍前に所属していた社会民主連合の江田五月も街頭演説などで石井を応援していた[5]。 初当選以後、通算当選3回[1]。1994年、羽田内閣において総務政務次官に就任[1]。自社さ連立政権時代には、「国民会計検査院-国会議員の会」を創設し、代表を務める。日本新党で初当選しながら細川護熙と袂を分かち、新進党結党には参加せず、栗本が代表幹事たる自由連合の結成に参加した。自由民主党と統一会派を組み、栗本・大内啓伍・柿沢弘治・佐藤静雄が自民党移籍後に一時的に代表に就任。 1996年1月、かつて自身が秘書として仕えた江田三郎の旧岡山2区での対立候補だった自由民主党総裁の橋本龍太郎を支持し、同じ与党の新党さきがけに移籍した。同年9月、旧民主党の結党に参加。 1998年2月28日時点でも社会民主連合事務局長でもあり、社民連十年史に「あとがき」を寄せている[6]。 刺殺→詳細は「石井紘基刺殺事件」を参照
2002年10月25日、世田谷区の自宅駐車場で迎えの車に乗ろうとしたところを、右翼団体『守皇塾』代表の伊藤白水によって刺殺された。事件が起きたのは石井が衆議院災害対策特別委員長在任中のことであり、事件を知って空港から病院に江田五月が駆けつけた際には、妻のナターシャや長女のターニャも呆然としていた。遺体には、左脇腹に致命傷と一見して分かる鋭い刺瘡があった[5]。享年63。 翌26日に警察に出頭し逮捕された伊藤は動機につき、「資金提供の仲介をした恩をあだで返すような言動をしてる」と、その供述では主張した[7]。 日本共産党の機関紙であるしんぶん赤旗によると、加害者の伊藤白水は石井議員が国会議員初当選する前から石井議員事務所をたびたび訪問しており、書籍や日本酒を高値で買い取らせていた。しかし、2001年頃から石井から面会拒絶されるようになると、伊藤は一方的に「育ててやったのに恩義を忘れた」と称して激怒、逆恨みするようになった。更には、強制執行を受けたアパートの家賃の肩代わりを要求も断られたため、伊藤は包丁と手裏剣をバッグなどに隠し持って、石井を殺害する機会を窺っていた[8]。 伊藤は「家賃の工面を断られたため、仕返しでやった」と供述したが、石井が国会議員や官僚の腐敗を徹底追及していたことから「暗殺された」との見方もある[9][10][11][12]。10月28日に予定されていた国会質問を前に、石井は「これで与党の連中がひっくり返る」と発言したという事実などが挙げられている[11]。事実、事件当日、石井の鞄には国会質問のために国会へ提出する書類が入っていたが、事件現場の鞄からは書類がなくなっており、いまだに発見されていない[13]。国会では審議されない、一般会計の4倍相当の金額を有する特別会計について、質問予定だったとされている。 2004年6月18日、東京地裁で無期懲役の判決が言い渡され、判決では被告が主張する「金銭トラブル」という動機を信用することができないとした[14]。2005年11月15日、最高裁で無期懲役の判決が確定した[15]。 政策・活動若いころにソ連(当時)に留学、博士号を取得。早くも70年代にそのソ連の崩壊を予言していたという[2]。 カルト宗教問題世田谷区成城での統一教会進出反対運動に協力した。1995年頃に教団が関連施設の設置を計画し、近隣住民とトラブルになる事件が発生した。近隣住民は教団の霊感商法やマインドコントロール、脅迫などの悪評から進出に反対し、「統一協会成城教会を断固阻止する会」を結成し、反対運動を展開した。これに教団は激しく反発し、内容証明を送付し法的措置を予告。さらに住民に対し「子供たちを皆殺しにする」との差出人不明の脅迫状も送付され、無言電話も殺到した。この運動に協力し、石井は土地の貸主と交渉。貸主の建設会社は教団宛に「契約解除」の通告を出すに至った[3]。
また、オウム真理教と統一教会の関係について、不可解な点があると主張していた[16]。
また、オウム事件を念頭に、宗教法人法による規制が不十分であることを主張し、さらなる規制強化を求めていた[16]。
「爆弾発言男」議員活動としては、主に日本の政府支出の無駄遣いに関して、フィールドワークを持っていた。国会議員が持つ権限を使った徹底的な調査で、税の無駄や政府の不正の追及をしていた。そのため、「国会の爆弾発言男」と呼ばれていた。1997年11月、衆議院で防衛庁調達実施本部背任事件を追及し、マスコミをリードし、東京地検の強制捜査にまで発展させた。東洋通信機だけでなく、年間約2兆円にのぼる防衛庁の装備品発注予算が長期にわたって不正に使われていたことがわかった。 2000年には、映画『バトル・ロワイアル』に関して「青少年に悪影響を与える」として国会で取り上げ、上映に反対し規制を働きかけようとした[17]。ちなみに、石井が『バトル・ロワイヤル』に関して国会で取り上げた4年後の2004年に、長崎県佐世保市の小学校で小学生が同級生を殺害する事件が起きている。その事件の犯人は映画『バトル・ロワイヤル』に影響され、同級生を殺害している(佐世保小6女児同級生殺害事件)。 日本の国家予算額の追及第154回国会において石井は、一般会計・特別会計・財政投融資から重複部分を計算したうえで、日本の年間歳出(国家予算)は約200兆円相当あるのではないか、と指摘した。財務大臣塩川正十郎は「御意見としてお述べになりましたのでございますから、私が否定するようなこともございません」と答弁した。また、参考人として出席していた格付け機関ムーディーズのトム・バーンは、日本政府の債務について、「平時における非常に大きな債務であるというふうに考えており、またさらに増大するものと思っている」と述べ、日本政府の債務状況は国際的に非常に高水準かつ増大の見通しが強い、との見解を示した。 その他著作
評伝
脚注
関連項目外部リンク
|