相良頼福
相良 頼福(さがら よりとみ)は、肥後国人吉藩の第4代藩主。相良氏第23代当主。 生涯慶安4年(1651年)[1]、第2代藩主相良頼寛の弟・相良長秀 (相良頼房の次男) の次男として生まれる。初名は長房。 元禄元年(1688年)、第3代藩主頼喬(頼福の従兄)が正室の於亀(頼福の姉妹)の間にもうけた頼泰、継室の月仙院との間にもうけた頼真が相次いで早世したため、元禄3年(1690年)4月に頼喬の養子となった。同年7月に将軍徳川綱吉に拝謁し、従五位下・志摩守に叙任される。 元禄16年(1703年)4月、頼喬の死去により家督を継ぐ。 宝永2年(1705年)、前年の大水害を受けて、頼福は上野国利根川、武蔵国荒川で改修普請を命じられ、同役の佐竹義格(出羽久保田藩)、松平頼昌(松平大膳家[2])、松平近朝(出雲広瀬藩)と共に任にあたり、この功で時服十領を賜る。 藩政においても水害の対策に追われており、財政は厳しかったが、宝永7年(1710年)4月より五木村逆瀬川赤岩谷の銅山の採掘を開始した。 正徳2年(1712年)9月16日、病気を理由に長男の長興に家督を譲り、幕府の許可を得て隠居。正徳4年(1714年)5月には剃髪して梁誠と号した。 享保5年(1720年)3月5日に死去した。享年70。 系譜
脚注参考文献
|