相原昇 (バレーボール)
相原 昇(あいはら のぼる、1968年7月2日 - )は、日本のバレーボール指導者である[1][2]。 元東九州龍谷高等学校教諭[3][4][5]、同校女子バレーボール部監督[1][3][5]。 来歴現役時代東京都品川区出身。寿司屋を営む両親のもとで次男として生まれた。昇が小学5年の時に両親が離婚し、女手一つで育てられた[2]。品川区立荏原第二中学校に進学し、バレー部に入部する。監督の菊池実に師事し、菊池が目黒区立第四中学校に転勤する際には、相原も転校して、菊池の指導を受けた。相原は全日本中学選抜メンバーに選出されると、中学選抜メンバーで台湾遠征した試合ではベストスパイカーに選出されている[要出典]。バレーボール強豪校である東洋高等学校時代に進学すると、チーム主将でエース兼セッターとして、第16回全国高等学校バレーボール選抜優勝大会などで活躍した[2]。 大学は日本体育大学に進学し[1]、最高学年の4年生のときに初レギュラーを獲得し、春秋の関東大学1部リーグではレシーブ賞を獲得した[1][6][7]。 4年生最後と大会となる全日本バレーボール大学男女選手権大会が近づいた1990年10月にバレーボール部の中田茂部長が急逝[1][8]したが、準決勝戦でフルセットの末に法政大学に勝利して決勝進出を決め[9]、東海大学との決勝戦は3-1で勝利するとともに、自らもレシーブ賞を獲得した[9]。なお、同大会女子大会においても日体大が優勝し、アベック優勝を果たしている[8]。卒業後は指導者としての活動を選び、1993年に開催される東四国国体の開催県である香川県[10]が、バレーボール競技成人6人制種目では香川教員クラブを強化チームに指定し[11]、教員選手の強化、補強に力を注いでいることから。香川県に教員採用されて香川教員クラブ所属となった。当時の同クラブは相原と麓哲哉(元神戸製鋼排球団所属[12]、後に香川県立高松工芸高等学校バレーボール部監督[13])を核とするチームで、1993年の国体本大会6人制成人男子種目では香川県勢では史上初となる3位入賞を果たした[14]。また全日本6人制バレーボールクラブカップ選手権大会においては、1992年に準優勝、1994年優勝を果たして[14]チームは解散し、相原も現役にピリオドを打った。 指導者として高松北高等学校時代1995年春に香川県立高松北高等学校に着任する[15]。1995年夏の高校総体香川県予選は選手が全てを1年生のチームながら優勝し、本大会出場を果たした[2][16]。翌1996年の春高バレーでも初出場を果たした[17]。同年夏の高校総体ではベスト8[18]、1997年の高校総体でベスト4を果たした[19][20]。 相原は個人的な借入金でバレーボール部の寮を建設して選手に合宿生活をさせ[2]、2003年の春高バレーでは、筒井視穂子らを擁してベスト4[21]などの戦績を残し、一躍全国強豪校の仲間入りを果たしたが、県教育委員会から、県立校における部活動で寮生活をすることが問題され、高松北高校体育コースまでが廃止されてしまった[2]。翌年の2004年の春高バレーでは初戦敗退となり、高松北高校時代の終焉を迎えた[22]。 東九州龍谷高等学校時代2004年春、東九州龍谷高等学校に転任した相原は大木正彦の後任としてバレーボール部コーチに就任した。2005年の春高バレーではベスト4入りを果たし[23]、2006年春から正式に監督に就任した[24]。2009年の皇后杯ではVプレミアリーグの2チームに競り勝ち準決勝に進出したが、準決勝の久光製薬戦で敗れた[25]。2012年の春高バレー(全国高等学校バレーボール選抜優勝大会・全日本バレーボール高等学校選手権大会)を五連覇を果たした[26]。 2019年、東九州龍谷高等学校監督を退任。年代別日本女子代表監督と日本女子代表コーチを務める[27]。 2021年、東九州龍谷高等学校に復帰。教頭に就任した[28][29]。 2025年4月、SVリーグのAstemoリヴァーレ茨城監督就任が発表された[30]。5月末に東九州龍谷高等学校を退職した[31]。 エピソード
家族両親の離婚で生き別れとなった兄・健志は、監督(外部指導員)として2003年に東京都立雪谷高等学校を第85回全国高等学校野球選手権大会に導き[2][38]、2016年4月から日本体育大学荏原高等学校野球部監督に就任している[39]。 妻は同い年生まれ。卓球の名門専修大学を卒業した元プロ卓球選手で、現在は高松市で卓球教室を主宰している[2]。一人娘は青森山田中学高等学校から関東の大学に進んだ学生卓球選手である[2] 指導法
選手時代の所属チーム
受賞歴
指導者としての戦績高松北高等学校時代
「国体」列の※印は香川選抜チームが出場しており相原は指揮をとっていない[42][44][53]。()内の記録は参考として掲載した。印なしは高松北高等学校単独チームとして出場[65]。 東九州龍谷高等学校時代
全日本ユース・ジュニア・シニア
主な指導選手高松北高等学校時代東九州龍谷高等学校時代
脚注
外部リンク |
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