盛圓寺(じょうえんじ)は、横浜市青葉区すみよし台にある日蓮宗の寺院。山号は能王山。旧本山は身延山久遠寺、池上芳師法縁。
歴史
概略
正応4年(1291年)7月10日、日蓮の高弟・六老僧の一人である蓮華阿闍梨日持を開山に迎え、その弟子の盛圓坊日孝及び能王院日妙尼が創建。その後、室町時代から戦国時代を経て荒廃の一途を辿ったが、天正年間(1573年-1593年)に實藏院日授が再興を発願し伽藍が整備されたと伝わる。その後、寛永18年(1641年)4月に4世・了運院日覺によって本堂が建立。続いて7世・實乘院日繼が鐘楼堂の建立を発願し、延宝7年(1679年)11月、8世・受仙院日性の代に領主の旗本・石丸定勝(大坂町奉行を務めた石丸定次の養子)から梵鐘の寄進を受け鐘楼堂が完成した。[2] 更に宝永3年(1706年)には10世・證善院日久によって本堂が再建。宝暦10年(1760年)10月には13世・心慈院日昌によって客殿が再建された。その際に掲げられた棟札は身延山久遠寺42世・耐慈院日辰によって認められたもので、本山との結びつきの強さがうかがえる。また15世・了藏院日理によって祖師像の衣替えと基礎及び屋根の普請が行われ、享和2年(1802年)には19世・本妙院日昌によって再度本堂の屋根が普請された。また文政13年(1830年)12月には23世・圓應院日沾によって庫裡が再建されるなど、歴代住職の手により精力的な護持丹精が施された。その中でも26世・俊明院日彰(村野日彰)による普請は広範囲に及んだ。明治7年(1874年)3月に庫裡及び玄関の屋根葺き替え、同9年(1876年)9月に七面宮の大幟を新設、同12年(1879年)4月に炭小屋、8月に鐘楼堂を再建し、9月には物置小屋を新築。更には同14年(1881年)10月13日に迎えた日蓮の600遠忌記念事業として、明治15年(1882年)10月13日までの1年間に、祖師堂及び宝塔の建立・本堂の再建・荘厳具の購入と田畑の開墾(桑苗2700株の植栽)が行われ、寺観を一新する功績を立てた。更に時が下り、昭和43年(1968年)10月には30世・慈乘院日惠(大谷宣惠)により本堂が再建され、平成7年(1995年)には33世・日瀧(遠藤雅裕)によって客殿が再建された。また、令和3年(2021年)2月16日に迎えた日蓮の降誕800年記念事業として、34世・信受院日正(現住職)によって本堂の全面改修及び耐震工事・常夜灯の設置・枯山水庭園の造成が施されるなど、700年を超える古刹としての威容が整えられ現在に至っている。また代数が判明している34代の住職のうち、実に12代の住職が檀林の能化(化主)や高学歴の所化(学生)であり、その歴史に相応しい寺格である事がうかがえる。[3]
年表
伽藍・境内
- 本堂
昭和43年(1968年)10月に30世・慈乘院日惠(大谷宣惠)によって再建。七面天女・鬼子母神等を祀る。
- 客殿
平成7年(1995年)に33世・日瀧(遠藤雅裕)によって再建。
- 庚申塚
帝釈天を祀る。
歴代住持
歴代 |
法号 (俗姓・道号) |
命日(享年[数え年]) |
経歴
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開山 |
蓮華阿闍梨日持 (松野氏) |
永仁3年(1295年)1月1日(46歳) |
六老僧・甲斐公 本山 貞松山蓮永寺(静岡県区静岡市葵区) 開山 本山 広布山本満寺(京都府京都市上京区) 崇敬開山 宗門史跡 妙光山法華寺(北海道松前郡松前町) 開山 成翁山法華寺(北海道檜山郡江差町) 開基 日持山妙應寺(北海道函館市石崎町) 開山 大圓山妙蓮寺(北海道松前郡福島町) 崇敬開山 広布山蓮華寺(青森県青森市本町) 開基 蓮華山東之院(東京都大田区池上) 開山 身延山窪之坊(山梨県南巨摩郡身延町) 開山 円応山法蓮寺(静岡県富士市南松野) 開山 妙法山永精寺(静岡県富士市南松野) 開山 松林山妙永寺(静岡県富士市浅間上町) 開山 他 多数開山
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開基 |
盛圓坊日孝 能王院日妙 (吉田氏) |
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中興開山 |
實藏院日授[4] |
天正16年(1588年)3月10日 |
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2世 |
久成院日秀 |
1月16日 |
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3世 |
圓妙院日勢 |
慶長7年(1602年)8月1日 |
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4世 |
了運院日覺 |
明暦2年(1656年)9月4日 |
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5世 |
敬信院日良 |
寛文3年(1663年)11月29日 |
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6世 |
本學院日行 |
14日 |
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7世 |
實乘院日繼 |
寛文10年(1670年)3月20日 |
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8世 |
受仙院日性 (月圓) |
享保2年(1717年)2月23日 |
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9世 |
通仙院日義 |
宝永3年(1706年)5月2日 |
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10世 |
證善院日久 |
宝永3年(1706年)6月7日 |
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11世 |
普善院日透 |
宝暦10年(1760年)11月24日 |
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12世 |
善立院日芳[5] |
宝暦2年(1752年)1月15日 |
久住山宏善寺(東京都町田市本町田) 歴世
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13世 |
心慈院日昌 |
安永6年(1777年)5月7日 |
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14世 |
了智院日達 |
安永7年(1778年)1月7日 |
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15世 |
了藏院日理 |
安永3年(1774年)5月5日 |
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16世 |
玄妙院日耀 |
安永7年(1778年)5月7日 |
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17世 |
海善院日信 |
文化10年(1813年)6月14日 |
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18世 |
本善院日翁 |
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19世 |
本妙院日昌 |
文化4年(1807年)4月21日 |
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20世 |
玄悟院日領 |
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21世 |
理静院日運 |
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22世 |
玄久院日永 (鴨志田氏)[6] |
文政8年(1825年)9月13日 |
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23世 |
圓應院日沾 (了直) |
明治11年(1896年)5月31日 |
飯高檀林 妙雲山飯高寺(千葉県匝瑳市飯高) 350世能化 栄久山光福寺(千葉県いすみ市大野) 37世 妙建山本立寺(東京都品川区東五反田) 歴世
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24世 |
智法院日峯[7] |
安政3年(1856年)2月25日(45歳) |
東山檀林 妙慧山善正寺(京都府京都市左京区) 536世能化 照光山円長寺(東京都大田区南雪谷) 17世
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25世 |
慈乘院日久[8] (完珠) |
明治4年(1872年)8月23日 |
南谷檀林 朗慶山照栄院(東京都大田区池上) 97世能化 東山檀林 妙慧山善正寺(京都府京都市左京区) 646世能化 廣栄山一乗寺(東京都港区麻布台) 19世
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26世 |
俊明院日彰[9] (村野日彰) |
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行時山光則寺(神奈川県鎌倉市長谷) 30世
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27世 |
慈俊院日學 (朝岡圓潮) |
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八聲山調顕寺(千葉県夷隅郡大多喜町) 35世 潮耀山惠日寺(千葉県勝浦市串浜) 36世
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28世 |
唱讓院日敬 (井手耀信) |
昭和2年(1927年)6月15日 |
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29世 |
耀賢院日達 (森耀賢) |
昭和27年(1952年)1月12日(66歳) |
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30世 |
慈乘院日惠 (大谷宣惠) |
昭和46年(1971年)9月26日 |
具足山圓妙寺(山梨県甲府市小曲町)[10] 歴世
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31世 |
慈恵院日雅 (小川道也) |
平成17年(2005年)1月10日 |
大経山心浄院(東京都大田区池上) 56世
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32世 |
日夫 (遠藤薫貴) |
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遠香山浄心寺(神奈川県茅ケ崎市香川) 16世
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33世 |
日瀧 (遠藤雅裕) |
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34世 |
信受院日正 (現住職) |
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近隣施設
脚注
- ^ この梵鐘は太平洋戦争中の金属供出で失われたが『新編武蔵風土記稿』に銘が残されている。内容は以下の通り。
「物之啓發莫先乎音聲。所謂此方眞教體也。音聲之中又以鐘爲先聞而至乎無聞者上也。發乎善心者次也。結乎勝縁者又其次也。有親疎遠近其所以至之一也。于爰本山甲州身延嶺久遠寺末流武州都筑郡奈良村能王山盛圓寺第七世以遺状先師寶乘院日繼後住八祖月圓日性、鑄掛之餘欲其勝縁不㖕(※口+辛)援筆即記又爲之。
銘曰
鑄鎔新鐘 筍𥳁(※竹+虚)梵宮 侵曉吼月 含霜喚風 寺住大盛 人證圓通 娑婆教體 在此聲中
延寶第七己未暦仲冬如意吉日
願主 法名 圓通院殿前石州乘譽到月辨居士
俗名 石丸石見守源定次
嫡子 石丸數馬源定勝」
- ^ 【能化(化主)】23世・圓應院日沾(飯高檀林)24世・智法院日峯(東山檀林)25世・慈乘院日久(南谷檀林・東山檀林)
【所化(学生)】14世・了智院日達(飯高檀林四ノ側)15世・了藏院日理(飯高檀林六ノ側)16世・玄妙院日耀(飯高檀林七ノ側)17世・海善院日信(中村檀林法華文句満講)18世・本善院日翁(中村檀林三ノ側)19世・本妙院日昌(中村檀林法華文句満講)20世・玄悟院日領(飯高檀林所化)22世・玄久院日永(南谷檀林法華文句満講)26世・俊明院日彰(南谷檀林中頭)
- ^ 盛圓寺所蔵『大過去帳』には「實藏院律師日授大德」とある。
- ^ 久住山宏善寺在山時には「日量」と号した。
- ^ 鴨志田氏は盛圓寺所在の都筑郡奈良村の住民。
- ^ 東山檀林時代には「日法」、照光山円長寺在山時代には「日保」と号した。
- ^ 南谷檀林時代には「守孝院日献」、東山檀林時代・廣栄山一乗寺在山時代・盛圓寺在山初期には「慈乘院日献」と号し、盛圓寺在山後期には「慈乘院日久」と改めた。
- ^ 法性山圓融寺(神奈川県川崎市高津区)39世の「日彰」と同一人物である可能性が高い。
- ^ 盛圓寺所蔵の「大谷宣惠 退職承認書」によれば、昭和27年8月20日付で「山梨県圓妙寺住職」を退職している。慈乘院日惠在世当時、山梨県下には久成山圓妙寺(山梨県南巨摩郡身延町)・藤光山圓妙寺(山梨県南アルプス市荊沢)・具足山圓妙寺(山梨県甲府市小曲町)の3ヶ寺が存在したが、『日蓮宗寺院大鑑』によれば久成山圓妙寺の歴世にはその名が存在しない。また藤光山圓妙寺及び具足山圓妙寺の歴世は掲載されていない。しかし、25世・慈乘院日久の師が宝塔山遠光寺歴世・智勝院日産であり、日久の弟子である26世・俊明院日彰が同じく遠光寺歴世・慈謙院日義の報恩回向を志している事から、遠光寺末寺である具足山圓妙寺の歴世である可能性が高いと推察される。
参考資料
- 『大過去帳』/盛圓寺/
- 「奈良村 盛圓寺」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ87都筑郡ノ7、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763987/108。
- 『日蓮宗大観』/西村慈珖 編/日蓮宗大観刊行会/大正7年(1918年)
- 『宗祖第七百遠忌記念出版 日蓮宗寺院大鑑』/日蓮宗寺院大鑑編集委員会/大本山池上本門寺/昭和56年(1981年)
関連項目
外部リンク
日蓮宗能王山盛圓寺 公式サイト