益田元固
益田 元固(ますだ もとかた、文化8年(1811年) - 明治8年(1875年)6月25日)は、江戸時代末期の長州藩重臣で、寄組問田益田家(4096石)の7代。 父は益田親愛(親賢)[1]。母は毛利就貞の娘[1]。妻は毛利就任の娘、山内就資の娘[1]。子に益田孫槌、三吉周亮、口羽良介、山内通遠室、山内通恂室がいる[1][2]。兄弟には毛利房謙室、毛利房顕室、毛利房嘉室がいる[1]。 長州藩第11代藩主の毛利斉元より偏諱を受けて元固と名乗る。また初名に兼将が伝わる[1]。通称は伊豆、七内で「益田伊豆」、「益田七内」とも称す[2][3]。号は幽岳。 生涯文化8年(1811年)に長州藩重臣益田親愛(親賢)の嫡男として生まれる[1]。 天保2年(1831年)、給領地の周防国吉敷郡問田に、陪臣や庶民のための郷校である学習斎を設立した[4]。 嘉永3年(1850年)8月25日に老中(家老)となり、当役を勤め[5]、嘉永6年(1853年)9月、江戸留守居役となり、藩主の毛利慶親に従い江戸と国元を往来する[2] [3][6]。翌安政元年(1854年)3月に江戸に行き、9月藩世子毛利広封の附役を兼勤し、安政2年(1855年)10月に帰国した。文久元年(1861年)2月、大頭役となったが、8月病気のため辞職[6]。文久3年(1864年)3月、出府を命ぜられ、京摂の間に滞在して動静を検察した[6]。 慶応2年(1866年)の第二次長州征討の際には芸州口で幕府軍と戦う[2][6]。 明治3年(1870年)における廃藩直前の問田益田家の陪臣の家臣団は、家老(3家)、家士上等(14家)、家士中等(12家)、家士下等(57家)、小組(30家)の116家が存在していた[7]。 明治維新後は萩玉江の別邸に隠退し、明治8年(1875年)6月25日に死去した[2][6]。享年65[2][6]。 なお、長府藩次席家老で明治維新後に新川県参事、鳥取県県令などを務めた三吉周亮は実子(四男)[2]である。 脚注参考文献 |