町村家
町村家(まちむらけ)は、まちむら農場の創業者一族。実業界のみならず政界・学界・音楽界にも人材を輩出している。 起源町村家は、越前藩の支藩(陪臣の知行領主)府中(現・福井県越前市)本多家に仕える武士の家系だった[1]。町村家9代目当主・町村織之丞は長男の金弥を12歳で上京させ、金弥は奉公しながら夜学に通い、札幌農学校に進学[1]。卒業後、牧場勤務を経て自ら牧場・農場経営に乗り出し、北海道酪農の嚆矢となった[1]。 町村家の過去帳にある最古の戒名は、「無門院大道善翁居士」で、没年は元和6年(1620年)「町村家の先祖」と記されている。天保7年(1836年)の本多家の給帳によると、180人の内、席次27番目に「町村次郎兵衛」の名があり、10人扶持の禄を受けていた。その嫡男惣助(後の織之丞)は、席次69番目、10俵で御近習を務めていた。また、天保年間(1830年代)や安政年間(1850年代)の史料によると、もっぱら御目付をつとめていたとされ、本多家においては、中級の武士として遇されていた(『町村金五伝』 424-438頁)。 町村信孝著 『保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる』 139頁によれば、「私の家は、江戸時代、越前府中(現在の福井県武生市)の奉行職を務めておりました。府中は福井藩の領地でしたが独立性が高かった。…(中略)その越前府中の奉行職第九代目が、私の曾祖父町村織之丞(まちむらおりのじょう)という人なのですが、この人までが武士で、その息子(私の祖父)の町村金弥になると、もう武士ではなくなります。明治維新です。」という。 町村金弥とその子孫金弥は2度結婚しており、先妻・後妻ともに山本怡仙の娘である。幕末越前国の歌人・橘曙覧は怡仙の従兄である。 金弥は5男5女がおり、長女・ことは山口県出身の教育者・林端に、次女・せんは広島県出身の士族で教育者の岡本半次郎にそれぞれ嫁いだ。金弥の5人の娘のうち2人が教育者の妻となっている。また、三女・幸子は下川美佐雄に、四女・春子は福井県出身の元早稲田大学教授・小林新に嫁いだ。また金弥の次男・誠は貿易業を営んだ。 だが町村家の家系形成で大きな役割を果たしたのは金弥の長男・敬貴と五男・金五である。町村家は牧場経営と政治という2本の太い柱によって家系が形成されていくが[2]、敬貴の家系が牧場経営を引き継ぎ、金五の家系が政治家家系としての町村家を引き継いだからである。 町村敬貴家敬貴は渡辺仙太郎の長女・志津と結婚し4男3女をもうけた[3]。次男・泰男は元小松製作所常務[4]。法学者の町村泰貴は泰男の子である。三男・鉄雄は住友銀行(現・三井住友銀行)専務を経て住銀リース(現・三井住友ファイナンス&リース)社長・会長を歴任[4]。四男・俊郎は医師。 一方、敬貴・志津夫妻の3人の娘のうち、長女・婦美子は陸軍軍人・岩倉久米雄の子で元総理府総務副長官の岩倉規夫に嫁いだ[4]。次女・光子は警察官僚・政治家で警視総監や参議院議長等を歴任した原文兵衛に嫁いだ[5]。政治家の中川雅治は原文兵衛・光子夫妻の娘婿である[4]。 敬貴・志津夫妻の4人の息子のうち牧場を継ぐ者がいなかったので、三女・寿美子に婿養子・末吉を迎えた[3]。末吉・寿美子夫妻は3男1女をもうけたが、長男・敬志が社会学者となり、次男・謙が早世したため[6]、三男・均が末吉の跡を継ぎ、まちむら農場の代表となった[7]。 町村金五家金五は法学者・桑田熊蔵の娘・二葉と結婚し2男4女をもうけた[8]。長女・富士江は元日本電気硝子会長・遠山景敏に、次女・ひろ子は内務官僚で総理府総務副長官を務めた秋山進に嫁いだ。行政法学者の小早川光郎は秋山進・ひろ子夫妻の娘婿である。三女・君代も姉のひろ子同様内務官僚で宮内庁侍従長を務めた山本悟に嫁いだ。 政治家としての町村金五は北海道知事や自治大臣等を歴任したが、父の跡を継いで政治家になったのが金五の次男・信孝である。信孝の没後は、信孝の娘婿・和田義明が後を継いだ。 系譜
参考文献
脚注注釈出典 |