岩崎彦弥太岩崎 彦弥太(いわさき ひこやた、1895年9月15日 - 1967年9月8日)は、三菱財閥のオーナー・岩崎家の一員で、三菱合資会社元社長・岩崎久弥の長男。 生涯1908年に東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、1913年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。その後、旧制学習院高等科を経て1920年に東京帝国大学文学部社会学科を卒業[1][2]。 一旦大学院に進むが[1][2]、1922年英国に留学し[1]、帰国後の1926年に三菱合資会社に入社[1][2]。1934年副社長に就任[1][2]。三菱財閥傘下の企業の取締役にも就任した。 戦前の長者番付では常連と化しており、1939年公表の納税額は日本一となる228万2076円を記録。西の横綱として三菱財閥内では最高額を納めていた(東の横綱は三井財閥の三井高公)[3]。 太平洋戦争後の1947年、GHQによる財閥解体政策により、父久弥、弟隆弥、恒弥と共に財閥家族に指定され、全役職を辞任。1953年三菱地所の取締役に就任[2][4]。 1945年12月に、縁戚の小弥太(祖父・弥太郎の甥)が没した事で、三菱本社社長後任(当主の地位)が約束されていたが、公職追放により[5]、その地位を理事長の船田一雄(三菱鉱業常務や三菱商事会長を歴任)に譲らざるを得ず、「悲劇の三菱当主」と称された[2][6]。 家族・親族操子夫人は佐竹東家(旧出羽国秋田藩主佐竹氏の分家)第17代当主・佐竹義準男爵の三女[7]。操子の兄・佐竹義利(義準の長男、彦弥太の義兄)は三菱系企業・東洋製作所の社長を務めた実業家[4]。義父・佐竹義準は肥前国平戸藩第12代藩主・松浦詮の四男として生まれ佐竹東家の養嗣子となったが、松浦詮の三男(義準の三兄)・稲葉正縄(山城国淀藩12代目藩主・稲葉正邦の養嗣子)の三女・英子が郷純造の九男・朔雄(純造の次男で朔雄の次兄・郷誠之助の養嗣子)に嫁ぐ。郷純造の四男・昌作(朔雄の四兄)は彦弥太の祖父・岩崎弥太郎の養子となると同時に岩崎豊弥と改名している。従って岩崎彦弥太の妻と岩崎豊弥の弟の妻は従姉妹同士で、三菱の創業者一族・岩崎家と彦弥太の叔父・豊弥の実家・郷家は二重の姻戚関係にある。 彦弥太・操子夫妻は1男3女を儲けた。長男・寛弥は三菱銀行取締役を経て[7]、小岩井農牧の親会社・東山農事の社長を務める[7]。小岩井農牧、東山農事の両社は岩崎家が三菱財閥とは別に経営してきた企業だが、その生い立ちから三菱グループとは密接な関係にある。長女・勢津子は国広逹宜(1917-1991[8])に、次女・昭子は三菱商事の社員、山村泰弘に、三女・美智子は日本カーボンや眞崎大和鉛筆(三菱鉛筆の前身)、東洋麻糸紡績(トスコの前身)等の社長を務めた実業家・近藤賢二の外孫で小岩井農牧常務を経て博報堂取締役となった高島孝之に嫁いだ[7]。長女・勢津子夫妻の長男で建築家の国広ジョージ(国広ジョージ健彦)、次女・昭子の長男で三菱ガス化学の山村裕紹、三女・美智子の長男でキリンビール執行役員の高島義彦はいずれも彦弥太の孫にあたる[7]。高島孝之の姪は増岡組3代目社長・増岡重昂の長男で鉄鋼ビルディング取締役・増岡隆一に嫁いでいるが、重昂の兄・増岡博之(政治家)の次女(すなわち隆一の従姉)が三菱鉛筆社長・数原英一郎に嫁いでいる。三菱財閥、三菱グループと三菱鉛筆は三菱の文字も使用するロゴマークも同じとはいえ企業自体は一切の資本・人的関係はないが、岩崎家は彦弥太三女の嫁ぎ先である高島家を通じて、三菱鉛筆の前身・眞崎大和鉛筆の社長を輩出した近藤家や高島家と姻戚関係にある増岡家を通じ、三菱鉛筆の現オーナー一族・数原家と姻戚関係で結ばれることになった。なお高島孝之の父方の祖父は心理学者の高島平三郎である[9]。 妹・美喜は外交官の沢田廉三に嫁ぎ[7]、戦後はエリザベス・サンダースホームを開設、関連著書をいくつか出版した。 系譜
参考文献
脚注・出典
関連項目 |
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