田辺徳五郎田辺 徳五郎(田邊 徳五郎[1][2]、たなべ とくごろう[3]、1885年(明治18年)2月1日[4] - 1947年(昭和22年)5月20日[3][5])は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家、地主[4]、神奈川県多額納税者[6][7]。衆議院議員(神奈川県第1区選出、当選1回)[3]。旧姓は渡邊、旧名は眞吉[6]、あるいは真吉[5]。 経歴神奈川県鎌倉郡戸塚駅(戸塚町を経て現横浜市戸塚区)に生まれる[5]。渡邊三左衛門の弟[6][7][8]。1909年(明治42年)長崎高等商業学校を卒業[2][3]。横浜石川中村町(現南区中村町)の地主で金融業を営む田辺徳五郎の養嗣子となり、先代の没後に襲名する[5]。 1914年(大正3年)田辺合資会社を設立[5]。1922年(大正11年)横浜市会議員に当選し、1942年(昭和17年)まで務めた[5]。その間、1934年(昭和9年)から1942年(昭和17年)まで議長を務めた[5]。1935年(昭和10年)、全国市会議長会長[9]。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では神奈川県第1区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選[1]。衆議院議員を1期務めた。その後、1945年(昭和20年)2月から1946年(昭和21年)まで再び横浜市会議長を務めた[5]。 ほか、横浜貿易倉庫重役、横浜商業会議所議員[5]、横浜植林、神中鉄道各監査役、神奈川県農工銀行、江ノ島電気鉄道、湘南瓦斯、光精機製作所各取締役、都南貯蓄銀行[注 1]取締役頭取、東海醤油取締役社長、横浜市復興信用組合長、同市教育会長を歴任した[3]。墓所は横浜市根岸共同墓地[5]。 家族・親族
脚注注釈出典
参考文献
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