田捨女
田 捨女または、田 ステ女(でん すてじょ/ステめ、1634年(寛永11年) – 1698年9月13日(元禄11年8月10日))は、江戸時代の歌人・俳人。貞門派の女流六歌仙(六俳仙)の1人。 氏名は田ステで、「女」は名の一部ではなく女流歌人の名に添える接尾辞である。法名は貞閑で、貞閑尼とも呼ぶ。 経歴田捨女は1634年(寛永11年)、丹波国氷上郡柏原藩(現在の兵庫県丹波市柏原地域、当時の藩主は織田信勝)に、柏原藩の庄屋で代官も務めた田季繁の娘として誕生した[1]。 6歳のとき
という俳句を詠んだという[1]。ただし、この句は伴蒿蹊『続近世畸人伝』(1798年(寛政10年)刊)以降の文献にしか見られず、捨女の貞門派の句風とも合致しないため、幼少時の捨女作とは考えにくいとする説もある[2]。 後に北村季吟に師事。1674年(延宝2年)夫が死去、1681年(天和元年)落飾して妙融と号した[1]。このころにはすでに貞門女流六歌仙の1人として著名であった。 その後子供らの独立を見届けた後、京都で俳諧・仏道などの修行を重ねた後、1688年(元禄元年)播磨国の天徳山龍門寺の傍らに「不徹庵」という庵を構え[1]、貞閑と改名。その地で後進の指導に当たった。 1698年(元禄11年)8月10日、65歳で死去[1]。龍門寺に葬られ、現在も捨女の墓がある。 死後JR柏原駅前と田ステ女記念館横に石像がある[3]。1997年(平成9年)、丹波市立柏原歴史民俗資料館に田ステ女記念館が増設された[4]。捨女の名を冠した俳句のイベントが定期的に開催されるなど[5][6]、地元での認知度は高い。 子孫に財界人田艇吉、枢密院顧問官や閣僚を歴任した男爵田健治郎、参議院議員田英夫らがいる。 脚注
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