田川行文
田川 行文(たがわ ゆきぶみ)は、鎌倉時代前期に出羽国田川郡(現・鶴岡市田川)を本拠地として、田川郡郡司を自称した豪族。奥州藤原氏の郎党。 人物一般的には、田川太郎(たがわ たろう)と呼ばれている。 文治5年(1189年)、鎌倉幕府の奥州征伐に際し、主君・藤原泰衡の命を受け、秋田致文と共に、越後国方面より北進してきた比企能員と、宇佐美実政の率いる幕府軍と戦って敗れ、さらし首にされた。 行文の墓は、田川氏の菩提寺である蓮華寺があった所と言われる、鶴岡市田川字蓮花寺の北端にある[1]。 脚注参考文献
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