田原藤太郎
田原 藤太郎(たはら とうたろう、1936年3月30日[1] - 2018年12月30日[2])は、北海道札幌市出身[1]のプロ野球選手(投手)。兄は、元プロ野球選手の田原基稔[1]。 来歴・人物兄の影響で野球を始め、北海高では、1年夏の甲子園に控え投手としてベンチ入りするなど将来を嘱望された[1][3]。2年次からエースとなるが、1952年夏の北海道大会では、1回戦で太田侃(元近鉄)・橋本力(元毎日)・渡部久仁男(元巨人)らを擁する函館西高に0対10と7回コールド負けを喫する[1][4]。以後は当時の監督であった筧智の指示で、1日800球の投げ込みや走り込み、100本ノックなどの猛練習でスタミナをつける[1]。同年の秋季大会では、決勝で再び函館西高と顔を合わせるが、8対1で快勝して雪辱を果たし、翌1953年の選抜出場を果たす[1][4]。選抜では初戦で太田武(元南海)がエースの伏見高(京都)と対戦したが、0対3で敗れる[3][4][5]。1953年夏の北海道大会も制し、春夏連続甲子園出場を果たす[3][4][5]。本大会では、初戦の慶応義塾(神奈川)戦で、相手打線を無安打に抑えながらも、失策絡みの失点で0対2で敗れるという珍記録を残した[3][4][5]。また、この試合では北海高も1安打のみであり、両チームの合計安打が1本というのは現在でも夏の甲子園における最少記録である[3]。1954年に中日ドラゴンズに入団[3][4][5]。入団初年度には国鉄スワローズから移籍した兄・田原基稔と兄弟で同一チームに所属した[3]。伸びのある直球やカーブ、シュートを武器にした。1959年退団。その後はアマチュアに復帰し、電電北海道で活躍した[5]。また、北海高校野球部のOB会長もつとめた[6]。 晩年は江別市に在住していた[2]。2018年12月30日に死去[2]。 詳細情報年度別投手成績
背番号
関連項目脚注
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia