王達
王 達(おう たつ)は清末民初の政治家。字は志襄[1]、子襄[2]。別名は蘭生[2]。 事績北京育才館を卒業し[3]、山東省洋務局、商務局、巡撫署で任官した。その後日本に留学し、1911年(宣統3年・明治44年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した[4]。 帰国後は山東省の進士資格を得て寧陽県、菏沢県などの県で知県(県知事)となる。中華民国が成立した1912年(民国元年)、高密県知事に任命された[2]。1915年(民国4年)9月、京兆尹に就任し、1920年(民国9年)8月まで在任した[5]。任期中の1917年(民国6年)に北京市で水害が発生、その対応に従事するなど、全般に治績は良好だったとされる[2]。 1924年(民国13年)、安徽省官鉱督弁となり[1][2]、翌年には安徽省省長顧問となった[2]。1931年(民国20年)9月、満州事変が起きると国民政府から駐日大使任命を打診されたが、王達は辞退している。同年、国民政府が組織した国民大会に国民代表として選出されたが、耳の病を理由に大会には出席しなかった。日中戦争期間中は蕪湖県に寓居しており、日本側から任官を誘われたものの全て拒否している[2]。 1946年(民国35年)、病没。享年66。家財は何も残っていなかったとされる[2]。 注参考文献
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