王瑚
王 瑚(おう こ、中国語: 王瑚; 拼音: Wáng Hú; ウェード式: Wang Hu)は、清末・中華民国の政治家。字は禹功。号は鉄珊。 事績清末の活動当初、保定蓮池書院で学ぶ。1888年(光緒14年)に戊子科挙人、1894年(光緒24年)に甲午科進士となり、翰林院庶吉士を授かった。その翌年以降、四川省各県で知県を歴任している。1907年(光緒33年)、日本へ農務視察に赴き、帰国後は保定で農務学堂を創設した。[1][2] まもなく岑春煊の招聘に応じ、四川営務処総弁に任ぜられる。さらに両広総督に任ぜられた岑に随従し、王瑚は広西省柳州知府、広東省欽廉兵備堂を歴任した。しかし王は兵事に疎く、革命派の蜂起を鎮圧できずにこれら両職から罷免されている。1909年(宣統元年)、河南省の新建陸軍第29混成協統に任ぜられた。まもなく東三省総督錫良に招聘され、東三省巡警局総弁、吉林東北路(伊蘭)兵備道を歴任している。[1][2] 民国での活動中華民国成立後の1913年(民国2年)、王瑚は直隷省雄県知県に任ぜられ、同年10月、湖南省民政長署理を務め、翌年5月、粛政庁粛正史となる。同年、湖南巡按使(民政長を改組)に任ぜられたが、実際には就任しなかった。1916年(民国5年)、総統府諮議官に任ぜられたが、張勲復辟の後に辞任している。1918年(民国7年)10月、陝甘禁煙専使に任ぜられた。[3] 安直戦争後の同年8月に京兆尹(北京市長に相当)となったが、わずか1か月で江蘇省省長に移っている。1922年(民国11年)1月、呉佩孚らと連名で梁士詒内閣の総辞職を求める公電を打った。同年6月、王瑚は山東省省長に任命されたが、3か月で辞任した。[4]この頃、馮玉祥の招請に応じ、『春秋左氏伝』や『易経』などの古典の講義を行っている。1924年(民国13年)、包寧鉄路督弁となり、1929年1月、黄河水利委員会副委員長となった。1932年春、私立輔仁大学国文系教授となる。1933年(民国22年)4月25日、北平市にて病没。享年69。[1][2] 注参考文献
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