玉陵玉陵(たまうどぅん、玉御殿または霊御殿とも)は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。所在地は沖縄県那覇市首里金城町。そもそもは第3代尚真王(在位1477年 - 1527年)が父、尚円王を葬るために建築したものである。世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓。なお「玉陵」と名付く墓所はほかに「伊是名玉陵」、「山川の玉陵」がある。 概要玉陵は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれる。中室は葬儀の後、当時の琉球の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨した。洗骨した後に遺骨を骨壺に収め、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。建造物の外は外庭、中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚の破片が敷き詰められている。 第二次世界大戦末期には、日本軍総司令部に近かった玉陵は首里城と共に集中砲撃の巻き添えに会い、東室・西室が破壊されるなど大きな被害を受けた。現在見られる大部分は第二次世界大戦後に復元されたものである。また第二次世界大戦で亡くなった旧制沖縄県立第一中学校(現・首里高等学校)の生徒を弔うための「一中健児の塔」などが近くに建立されている。 2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された他、全体が国の史跡、「玉陵」5棟(墓室3棟、石牆2棟)が国宝(建造物)[2][3]、石彫獅子と玉陵碑が県の有形文化財(彫刻)に指定されている[4]。 被葬者玉陵内には被葬者としての資格を記した碑、いわゆる玉陵の碑文があり、それによると有資格者とは
の子孫だとされる。これは尚真王が生存中は守られていたであろうが、子の尚清王は即位ののち、すぐにこの碑文の内容に反し、廃嫡された兄:尚維衡・浦添王子朝満を玉陵に移葬している。また、各王子の子孫もここには葬られず、それぞれ各家で墓所をもっている。 例外を除き、基本的に被葬者は歴代王と王妃であると思って良い。第二尚氏・第二代国王 宣威は初代王(尚円王:金丸)の15歳年下の実弟であるにもかかわらず、玉陵には入れてもらえず、越来の地(現・沖縄市嘉間良3丁目、学校給食センター近く)にあるので、実質的に金丸と宇喜也嘉の家族の墓であろう。 1931年、尚家20代当主尚典の夫人:祥子(野嵩按司加那志)の入棺の後、新たな被葬者はいない。 以下は、玉陵の被葬者の一覧である。[5]
建築
ギャラリー
玉陵以外の尚家墓所歴代王の中で、2代尚宣威王、7代尚寧王の二名は、玉陵に葬られてはおらず、尚寧王は浦添市仲間にある浦添ようどれに、尚宣威王は沖縄市八重島にそれと伝わる墓がある。 なお、玉御陵には尚円王の父・尚稷とその妻が埋葬されていると伝わる。 伊是名玉陵は伊是名島の伊是名城の麓に現存し、尚真王代に築造、1688年に石造[7]となったと伝わる。なお、尚円王伊是名出身説とともに、その両親の埋葬についても疑問点が多く、これは単に銘刈家の墓という説もある。その他、歴代の神女、2005年には21代尚昌の長女である井伊文子、また22代尚裕が葬られた。 山川の玉陵(山川陵とも。首里の西隣の首里山川町に現存)は王家の脇墓で、夭死して玉陵に葬られなかった者などの墓所であった。19代尚泰王の七男である尚時などもそこに葬られている。 関連項目脚注
外部リンク座標: 北緯26度13分05.9秒 東経127度42分53.1秒 / 北緯26.218306度 東経127.714750度 |