玉縄陣屋
玉縄陣屋(たまなわじんや)は、神奈川県鎌倉市植木字相模陣(旧相模国鎌倉郡植木村)にあった陣屋。江戸時代前半期に当地に存在した玉縄藩の藩庁で、玉縄城(山城)の南山麓にあったと推定されている。 概要鎌倉市植木・城廻・関谷・玉縄にかけての丘陵地帯に所在する玉縄城は、1512年(永正9年)の伊勢盛時(北条早雲)による築城以来、後北条氏と上杉氏や武田氏・里見氏との幾度もの抗争の場となり、後北条の中核家臣団(玉縄衆)の東相模最大の拠点となってきたが[4][1]、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で徳川家康の軍に包囲され、山中城防衛に失敗して自決覚悟で玉縄城に籠った城主・北条氏勝が、大応寺(現・龍寶寺)住職らの説得を受けて無血開城し、後北条氏の城郭としての役割を終えた[4]。その後、家康は本多正信・水野忠守に玉縄城を預けたが、1615年(慶長20年)の一国一城令を受けて1619年(元和5年)に廃城となった[1]。 その後、長沢松平家の松平正綱が22000石を受けて玉縄に入封されて玉縄藩を立藩し[4]、正綱は玉縄城山麓に玉縄陣屋を建てた。しかし3代藩主松平正久が1703年(元禄16年)に上総の大多喜藩へ移封となったため、廃藩となった。なお1792年(寛政4年)に松平定信が海岸防備のために玉縄城の再興を計画したが、実現しなかった[1]。 発掘調査玉縄陣屋は、玉縄城本曲輪の南側に開く谷戸に位置していたと推定されており、谷戸内の坂道は「陣屋坂」とよばれている。1987年(昭和62年)の陣屋坂東側での発掘調査では、玉縄城に関わる家臣団の屋敷跡が検出されたが、1989年(平成元年)から1990年(平成2年)にかけて陣屋坂西側(植木字相模陣370番地)で行われた発掘調査では、16世紀-18世紀代の道路や建物・井戸・木樋・玉砂利敷きの苑池(庭園)等の遺構が検出され、同時期の陶器や漆器・木製品などの遺物も出土した。これらは年代からみて玉縄陣屋に関わる遺構・遺物と目されている[5][1]。 脚注参考文献
関連項目外部リンク
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