玉樹チベット族自治州
玉樹チベット族自治州(ぎょくじゅ-チベットぞく-じちしゅう)は中華人民共和国青海省に位置するチベット民族の自治州。 チベット名はユフ・プーリー・ランキョン・クル(チベット文字:ཡུས་ཧྲུའུ་བོད་རིགས་རང་སྐྱོང་ཁུལ་)。中国名「玉樹」は、この地方の伝統的呼称ユルシュル (yul shul) の音写であるが、現行のチベット名はこの「玉樹」から再音写した表記である。 チベットの伝統的な地理区分では大部分がアムド地方に属するが、東南部はカム地方の北部に相当する。 州人民政府は玉樹市のケグ(skye rgu、Gyêgu、結古)鎮にある。西洋や古いチベットの文献ではジェクンド(Jyekundo, skye rgu mdo)の名でも登場する。 地理北方で海西モンゴル族チベット族自治州、新疆ウイグル自治区、東部でゴロク・チベット族自治州および四川省のカンゼ・チベット族自治州、西部から南部にかけて海西モンゴル族チベット族自治州の飛び地をはさんでチベット自治区のナクチュ地区、南部でチャムド市と接する。 民族
歴史玉樹はかつて吐蕃(チベット帝国)の一部であった。元朝時代には吐蕃等路宣慰司の管轄下に入り、明末清初にはモンゴルのホショート部が青海に進出し、玉樹のチベット族の首長たちを支配し、爵位を与えて台吉(領主)とした。清朝末期には西寧弁事大臣の直接管轄下に置かれていた。民国時代には玉樹、囊謙、称多の3県が設置され、その下の千百戸制度は従来通り維持された。 1914年、北洋政府は甘川(甘粛省と四川省)の辺境を調査するため、周務学を隊長とし、周希武と牛載坤を特派員として玉樹の結古鎮に派遣した。周希武は玉樹地域を9ヶ月間にわたり調査し、『玉樹土司調査記』を執筆した。1916年、北洋政府は周務学のチームの調査に基づき、玉樹を青海省の管轄範囲内に組み入れた[1]。 中国国民党との連携を取りつけ青海省を支配していた馬一族が国共内戦に破れ、1949年10月、中国人民解放軍青海省軍政委員会の玉樹特派員事務所が設立され、玉樹の軍政権を正式に掌握し、玉樹、称多、囊謙の3県を管轄した。事務所は玉樹県の結古に置かれた。1950年6月には青海省軍政委員会の玉樹特派員事務所が廃止され、青海省玉樹分区人民行政督察専員公署が設立された。 1951年1月、玉樹分区人民行政督察専員公署は玉樹専区専員公署に改称された。同年7月には玉樹チベット族自治区準備委員会が設立され、12月25日には玉樹チベット族自治区で第一回の各族各界人民代表大会が開催された。この会議での決議により玉樹専区が廃止され、1952年2月12日、玉樹チベット族自治区(蔵族自治区、プーリー・ランキョン・ジョン、bod rigs rang skyong ljongs)が専区レベルとして設立された。自治区は称多と囊謙の2県を管轄し、玉樹県の地域は自治区直轄となった。 1955年6月、玉樹チベット族自治区は玉樹チベット族自治州(蔵族自治州、プーリー・ランキョン・クル、bod rigs rang skyong khul)に改称され、玉樹(県級機関は未設置)、称多、囊謙、治多、雑多、曲麻莱の6県を管轄するようになった。 2010年4月14日に青海地震発生。 2021年に、玉樹建州70周年祝賀行事が開催され、州政府が競馬や「潇洒の康巴人」パレードを開催した[2]。また、「三江之源、聖潔玉樹」特別公演や民間スポーツ競技、ゲサル王杯走馬競技、伝統舞踊ショーなど、多彩な文化・スポーツ活動も行われた[3]。 交通行政区画1県級市・5県を管轄する。
年表玉樹特派員弁事処玉樹専区
玉樹チベット族自治区
玉樹チベット族自治州
脚注
参考文献
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia