猪使子首

猪使 子首(いつかい の こびと)は、飛鳥時代豪族

出自

猪使氏は安寧天皇の皇子、磯城津彦命を祖先とすると、『日本書紀』巻第四にあり[1]、『新撰姓氏録』「右京皇別」にも、猪使宿禰は「安寧天皇皇子志紀都比古命之後也」とある。猪飼部を管掌する氏族と見られ、奈良時代には天平宝字6年3月10日(762年)付の「羽黒大山等解」には、造石山院所雇夫として檜の皮を進上した猪使宿禰広成の名が見える。

記録

日本書紀』巻第二十九によると、以下の出来事の直前、猪使連氏は天武天皇13年(684年)の八色の姓の制定により、同年12月、宿禰を与えられている[2]

それに連続するかのように、同月、

大唐(もろこし)の学生(ものならひひとども)土師宿禰甥(はじ の すくね をひ)白猪史宝然(しらゐ の ふびと ほね)、及び百済の役(えだち)の時に大唐(もろこし)に没(をさ)められたる者(ひと)、猪使連子首(ゐつかひ の むらじ こびと)筑紫三宅連得許(つくしのみやけ の むらじ とくこ)新羅に伝(つた)ひて至(まうけ)り (唐に派遣された留学生の土師宿禰甥・白猪史宝然及び、百済の戦役の時、唐に捕らえられた猪使連子首・筑紫三宅連得許が、新羅を経由して帰国した)訳:宇治谷孟

そこで、新羅は大奈末(だいなま)の官職にあった金物儒(こんもつぬ)を遣わして、甥一行を筑紫国に送った[3]

それから1週間後、大和政権は、死刑以外の罪人の恩赦を行った、という[4]

この時の送使の饗応はのちの参考にされたようで、持統天皇4年(690年)に、大伴部博麻を送り届けてくれた新羅使に対しても、大和政権は同様の処遇をした、と伝えられている[5]

記録に現れている限りでは、最初の白村江の戦いの捕虜帰還である。

脚注

  1. ^ 『日本書紀』安寧天皇11年正月1日条
  2. ^ 『日本書紀』天武天皇13年12月2日条
  3. ^ 『日本書紀』天武天皇13年12月6日条
  4. ^ 『日本書紀』天武天皇13年12月13日条
  5. ^ 『日本書紀』持統天皇4年9月23日条・10月15日条

参考文献

関連項目