狩野内膳狩野 内膳(かのう ないぜん、元亀元年(1570年) - 元和2年4月3日(1616年5月18日))は、安土桃山時代・江戸時代初期の狩野派の絵師。内膳は号、名は重郷(しげさと)。通称は久蔵、幼名は九蔵。法名は一翁、或いは一翁斎。息子は日本初の画伝『丹青若木集』を著した狩野一渓。風俗画に優れ、「豊国祭礼図屏風」「南蛮屏風」の作者として知られる。 略歴荒木村重の家臣、一説に池永重元の子として生まれる。天正6年(1578年)頃に根来寺密厳院に入ったが、同年に父が仕えた村重は織田信長に攻められ没落した(有岡城の戦い)。後に還俗して狩野松栄に絵を学び、天正15年(1587年)に18歳で狩野氏を称することを許されて豊臣秀吉に登用され、以後豊臣氏の御用を務めたが、根来寺は天正13年(1585年)に秀吉に攻め落とされ(紀州征伐)、内膳はその時に捕虜として連れていかれたのではないかとされている[1][2]。『丹青若木集』では「我が家の画工となるは頗る本意にあらず」と述懐しており、主家が信長に滅ぼされて、仕方無しに絵師となった事情が窺える[3]。 文禄元年(1592年)、狩野光信らと共に肥前名護屋城の障壁画制作に参加、翌文禄2年(1593年)にはそのまま長崎に赴いている。この時の視覚体験が「南蛮屏風」の細やかな風俗描写に生かされたと推察されている[1]。後に豊臣秀頼の命で「家原寺縁起」の模写をしている。 光信亡き後に狩野派を率いた狩野孝信の差配で内膳は狩野山楽と共に豊臣氏の下へ置かれた[4]。慶長11年(1606年)に豊国神社へ奉納された「豊国祭礼図屏風」は慶長9年(1604年)に秀吉の七回忌に行われた豊国大明神臨時祭礼を描いた記録画で、祭りに熱狂する民衆の姿を写し出し、盛大な模様を後世に伝える性格が強い[5][6]。一方、注文主とされる秀頼と母・淀殿の命令で高台院を醜い顔の老尼で描いたとされ、屏風は片桐且元を表向きの奉納者として豊国神社で「下陣」に公開されたが、背景には慶長10年(1605年)に徳川家康の使者として秀頼上洛を勧めた高台院への淀殿の怒りがあったとされる[7]。 秀頼ら豊臣氏が慶長20年(元和元年・1615年)の大坂の陣で滅亡すると、翌年の元和2年(1616年)、豊臣氏の後を追うように京都で亡くなった[1][8]。 内膳の画系は江戸時代になっても、表絵師・根岸御行松狩野家として幕末まで続き、国絵図制作を得意とした[8]。旧主の遺児岩佐又兵衛は内膳の弟子とも言われるが、確証はない[9]。また、水墨の花鳥画・人物画などでは同時代の絵師海北友松の影響が見られる[1]。 代表作
脚注
参考資料
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