烏拉部故城
烏拉部故城 (ウラ・ブ・コジョウ, 拼音:Wūlā bù gùchéng) は、中共国務院が「第七批全国重点文物保護単位」(2013) に登録した古城趾の名称。明代海西女真四部の内の一、ウラ・グルン (烏拉国) 首都のウラ・ホトン (烏拉城) にあたるとされる。登録された城址所在地は「吉林省吉林市龍潭区」。城址内は現在、小学校と畑になっているが、時代を経ながらも保存状態は良好で、更に1962年の調査開始以来、貴重な文化財が多く出土し、東北部、わけても吉林地区の明代研究において重要な価値を帯びている。[2]俗に「大城子」また「烏拉街古城」とも。[3] 歴史南宋紹興年間中期 (1140年代)、曾て渤海国 (698-926) の時代にスンガリー・ウラ (松花江) の畔に築成された古城が大水に遭い、東南 (西南とも) へ1km隔てたフンニ (hūngni、洪尼) 地方 (現旧街村) に移築され、それに因んで洪尼羅城 (哈思呼貝勒城とも)[4]と呼ばれるようになった。 明朝洪武 28 (1395) 年、ウラナラ氏始祖・ナチブルが遼東にウラ・フンニ・ホトン (ula hūngni hoton、烏拉洪尼城) を築成し、フルン・グルン (扈倫国) を樹立。ウラ部はフルンの一部となり、ナチブルは後にウラの人々により部主に推戴された。[2] 嘉靖40 (1561) 年、ナチブルの昆孫ブヤンは、父タイランの代で蒙古の侵攻を受け崩壊したフルンを再興さすべく、次々と周辺諸部を併呑、ウラ・ビラ (烏拉河) 東岸のウラ・フンニ・ホトン城址を利用して築城し (ウラ・ホトンに改称)、[4]ウラ・グルンを樹立して国王を称した。最盛期のウラの領土は、現在の長春市双陽区、長春市楡樹市、吉林市中心部、吉林市永吉県、吉林市舒蘭市、吉林市蛟河市などまで及んだ。[5] 万暦41 (1613) 年旧暦1月、ヌルハチがウラ・ホトンを陥落させ、ウラ・グルンは滅亡。 清朝康熙40 (1701) 年、打牲烏拉総管・穆克登が新たに (現・烏拉街鎮に) 築城すると、こちらは「烏拉新城」と呼ばれ、ウラ・ホトンは現地民から「旧街」「老城里」などと呼ばれた。 位置『欽定盛京通志』(1778?) の記載「……城北七十里混同江之東即遼時寧江州故址……」に拠れば、ウラ・ホトンは吉林城 (吉林府) の北へ70「里」、混同江 (第二松花江)[6]の東の位置に在り、遼代の「寧江州」城址にあたるとしている。「辽代宁江州考」(李, 1981) に拠ると、「寧江州」の比定地は昔から色々な説が提出されてきた。いづれも現吉林省に位置し、主要なもので、 の五説ある (3.-5.は現松原市扶余市)。李は別の候補として、6. 扶余県西部の「伯都訥古城」に比定し、その理由として、
以上の四点を挙げている。 吉林師範大学の客員教授・趙東昇は、自身の著書『扈伦研究』において、ウラナラ氏始祖・ナチブルの祖先 (ワンヤン・ウジュの子孫) は当初「寧江州」に流れ着き、その後、大水で城が損壊した為「西南」に移動し、同地に築城してウラ・フンニ・ホトンと名附けたと説く。[7]この説に従えば、『欽定盛京通志』が指すのはウラ・ホンニ・ホトンに移住する前の城ということになる。尚、同書に拠るとフンニ (同書では洪尼勒としている) とは「要塞」の意味で、「沿河要塞」に築城されたのでウラ[8]・フンニ・ホトンだと説く。 1962年に吉林省博物館会などが考古学調査を共同で行い、その結果を纏めた報告書に拠ると、ウラ・ホトン (ブヤンがウラ・フンニ・ホトン城址に築成した城) は、吉林市中心部から北へ約35kmの現吉林市龍潭区烏拉街満族鎮旧街村大隊[9]に在る城址だとされている。[3]同地には「構造」の節に述べる通り、城址らしき遺構が存在し、西方数百mの距離をスンガリー・ウラが流れている。[2] 構造「烏拉部城址」は総面積にして約90万m2と規模は比較的大きい。[3]城壁は内、中、外の三層構造で、三層とも外側に幅約20mの水堀の遺構が見られ、堀の分だけ内側よりも外側が高く、地形的には外城→中城→内城→本城と順番に高くなっていたとされる。[10]城壁は土石混築の基礎上に築かれ、下部は糞土版築に依り、[10]幾層も土を突き固めて形成した痕跡がはっきりと認められ、各層の高さは6-10cm、[3]上部は堆土砌築 (煉瓦を積上げる建築方法) である。[10]また、規則正しく等間隔に柱を立てたような跡 (柱洞痕) が見られる (柱材が腐食すると化学反応でその痕跡が遺る)。[2]形成と規模は吉林省通化市輝南県に位置する「輝発古城」と非常に近似している。[3] 内城全体に台形を呈し、東壁201m、西壁250m、南壁171.5m、北壁163.5mで、全長は786mに達する。城壁の高さは4.2-4.3m、[11]、東壁は7.9m、[3]天辺の厚さ1-3.5m、根元の厚さは10-12.4m。真南に幅3mの門が一基あり、[2]切り出された花崗岩で作られた34段の階段が門から伸びている。[3]四隅には、城壁よりも高く、且つ壁面よりも外側に競り出た台座があり、角楼 (隅櫓) の趾かと考えられている。城壁外側に微かだが水堀の遺構が認められる。内城の中央部やや北寄りの位置には、土を突き固めて形成された楕円を呈する大型の土で築かれた台があり、一般に「白花公主点将台」と呼ばれる (後述)。幅は東西に50m、南北に25mで、台座上部は亀の甲羅のように丸みを帯びている。[2] 「白花点将台」趙東昇氏に拠れば、[12]この土の高台の由来については、数百年にも亘ってスンガリー・ウラ (松花江) 沿岸地域に語り継がれた民間伝承があり、(共産党による) 解放以前は家々に知られたが、今では知る人もどんどん減っているという。遥か元代の雑劇『百花亭』と明代の『百花記』の二つは一致して、「白花公主」が「築台点将」(台を築き指揮官を指名) したという話を伝えるが、長い年月の内に枝葉が生え、尾鰭背鰭がつき、多数の異なる版が現れて真偽も判別困難となった。 「白花公主」なる人物についても、金朝太祖・ワンヤン氏アグダの娘とする説や、アグダの四男・ウジュの妹とする説、金代海郡王の娘とする説、フルン・グルン始祖・ナチブルの娘とする説など、様々な主張や見方が存在する。甘粛省涇川県にはワンヤン氏の集落があり、同地の祭神「聖母娘娘[13]」はアグダの妹「白花公主」である言い伝えられている。各説の真偽はともかくも、「白花公主」は実在していた可能性が高く、在世当時および後世子孫にある程度の影響を及ぼしたと考えられる。清末詩人にして吉林の書道家である成多禄の詩作中にもそれを証明するものが存在する。「烏喇部,貝勒家,層楼複殿飛丹霞,粉侯昆弟夸兀朮,雌将風流説不花。」この「不花」を「白花」と考えれば、成多禄はウジュ (兀朮) と「白花 (不花)」を結びつけて、「白花」を金朝公主とする説をとっていたと考えられる。 趙氏は多数ある版の内二つを所蔵し、一つは趙家先祖代々伝わるもの、もう一つは趙氏が故郷と先祖の故地で調査を行った際に入手したものだが、内容は相反するという。主要人物の「巴拉鉄頭」を例にとると、ある版では忠臣を陥れ、周辺国と内通する奸臣として描かれていて、「白花公主」により看破された後に処刑される。もう一つの版では忠誠心が強く、海郡王父子に二代三朝に亘って仕えた元老として描かれているが、権位簒奪の陰謀を看破した後に首謀者の奸計にかかり、誣告を信じた白花公主によって処刑される。スンガリー江岸には「白花公主一十七,巴拉鉄頭死的屈」という諺も伝わっている。「巴拉鉄頭」は実在した人物らしく、烏拉部故城の北20里のところにある三家子村の江岸の辺りに同人の墳墓とされる遺跡が今でも確認できる。 「白花公主」の最期については次の三説ある。一、戦闘中に蒙古兵の放った火矢によって焼死したとする説。二、敵撃退後に結婚し、子供を授かって天寿を全うしたとする説。三、敵軍から脱出し、遠く逃れて音信が途絶えたとする説。 中城不規則な四角形を呈し、東壁879.4m、西壁1,409m、南壁584.7m、北壁648.2mで、全長3,521.3m[14]に達する。東壁と北壁の保存状態が良好で、南壁と西壁は大部分が崩壊している。西壁はスンガリー江の浸蝕に由り損傷が甚だしい。城壁は現存で高さ5mほど、天辺の厚さ1-2.6mで、根元は15-23m。城壁外側は切り立ち、内側は緩やかに傾斜している。東に幅5m、南に6m、北に10mの門がそれぞれ一基ずつ設置されている。また内城と同様に、四隅には角楼 (隅櫓) の台座と思しき基礎部分が残り、城壁よりも0.7-1.8m突き出ている。東、南、北壁の外側にはいづれも現存で20mほどの水堀の遺構が残っている。北壁の東寄り箇所には土製の煉瓦を積み重ねた城壁が現存している。[2] 外城不規則な四角形を呈す。現存している東、南、北壁は所々闕け、西壁は浸蝕を受けて損壊している。[2] 現況1987年6月に「昭和26年度日本学術振興会特定国派遣研究者」として「烏拉部城址」を訪問した河内良弘[15]は、「中国東北地区満族文化研究訪問報告書」で現地の様子を以下のように描写している。
1994年8月に同地を訪問した満族史研究会の後藤智子は、「烏拉街探訪」で以下のように描写している。
保護活動と発掘調査保護活動1961年4月13日:「烏拉古城」の名で「吉林省級重点文物保護単位」に登録。しかし、保護管理を担う専門機関および専門職員がなかった為、ことに文化大革命期間中 (1966-1976) には一定程度の破壊 (遺構掘鑿、荒地開墾、住居建築、道路開通) 被害に遭った。[2] 1981年:吉林省人民政府が「省級重点文物保護単位」への登録を改めて発表。[2] 1983年:永吉県文物管理所を設立。[2] 1992年:吉林市文物管理処を設立。永吉県文物管理所の設立と併せて、破壊行為の抑止に一定の効果をあげた。しかし城壁が土で築成されている為に、水害 (浸蝕) や風害 (風化) などの自然的要因による損壊は進んだ。(未来においても損壊は予想される。)[2] 2013年3月:国務院が「烏拉部故城」の名称で「第七批全国重点文物保護単位」(分類:古遺址) に登録。管理機関は吉林市文管弁 (文化財管理弁公室)。[2]ウラ関連の遺跡文化財として「烏拉街清代建筑群」「烏拉街沿江古城址」の二点も同時に登録された (いづれも吉林市龍潭区)。 発掘調査1960年:「全国文物普査」による初回調査。[2] 1962年9月:吉林省博物館会と吉林市博物館が共同で「烏拉古城」(当時の登録名称) の調査を実施。調査結果は『明代扈伦四部乌拉部故址—乌拉古城调查』として報告書に纏められた。[2] 1985年:「全国文物普査」による第二回調査。[2] 2008年:「全国文物普査」による第三回調査。[2] 文化財古城内外では文化財も出土している。1957年には「白花公主点将台」の真南、約500mの位置から唐宋の銅鏡、北宋の銅銭、遼代銅鏡、銅鞭穂、紐付きの銅製装飾品が、1960年には中城から銅火銃が一丁、それぞれ発掘された。[2] 参照元・脚註
参照文献・史料書籍
論文
Webページ
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