烏拉河の戦

ウラ・グルンの戦役
万暦35(1607):烏碣岩の戦
万暦36(1608):宜罕山の戦
万暦40(1612):烏拉河の戦
万暦41(1613):烏拉城の戦
そのほか関聯する戦役
天命07 (1622):「洪匡失国

烏拉河の戦[1] (ウラ-ガのたたかい / ウラ・ビラの-) は、1612年9月に勃発した、マンジュ・グルン (満洲国)[2]ウラ・グルンとの間の戦役。ブジャンタイの傍若無人な態度に憤ったヌルハチが大軍を率いてウラに侵攻し、ウラ・ビラ (烏拉河) の西岸の五城を連続で攻略した為、ブジャンタイは舟で河に漕ぎ出で、舟上で額づき媾和を求めた。ヌルハチは人質として自らの子を差し出せと言い置き、ウラ・ホトン (烏拉城) 附近に砦を構え、監視兵を置いて撤兵した。

伏線

万暦36 (1608) 年、弱体化したウラの討伐を図るマンジュ軍により、難攻要塞イハン山城が陥落した。(→ 詳細:宜罕山城の戦)

万暦39 (1611) 年8月19日、東海クルカ[3]地方のジャクタ[4]領民がマンジュに帰順した為、ヌルハチは甲冑30を下賜した。しかし同領民は下賜された甲冑をウェジ[5]のサハリヤン[6]領民に渡し、木に懸けて矢の的にさせ、更にブジャンタイからウラへの従属を条件に疋布を受け取った。

12月、ヌルハチは、ドンゴ氏ホホリ[7]ニョフル氏エイドゥ[8]フルハンの三人に兵2,000を率いてクルカ地方を征討させ、ジャクタ・ホトン[4]を包囲して三日に亘り降伏勧告したが承服せず、城を陥落させて兵1,000を殺害、領民家畜2,000を接収した。近辺の村落も投降し、二人の路長[9]および領民500戸を連行して帰還した。

図:「三將克扎庫塔」(左上:ダルハン・フルハン、左下:ホホリ、右下:エイドゥ)

万暦40 (1612) 年4月、蒙古ホルチン部のミンガン[10]に端整な娘がいると聞いたヌルハチは、使者を遣って婚姻の希望を伝えた。娘は已に婚約していたが、九国聯合に参与した (古勒山の戦) ことへの償いからミンガンは婚約を破談させ、その20歳の娘を連れて、54歳の誕生日を迎えたヌルハチに謁見した。ヌルハチは大酒盛りを振まって祝言を挙げた。

9月、[11]ウラ国主・ブジャンタイがクルカ地方を二度に亘って襲撃し、ヌルハチに征討された領地を奪回、領民を拉致、物資を掠奪した。一方で、イハン山城の戦後に使者を捕えヌルハチに引渡したことを、イェヘに謝罪した上で、イェヘと関係修復を図り、また、蒙古ホルチン部のジャイヅァン[12]・ベイレ、ウンガダイ・ベイレとの関係を強化し、軍事同盟を締結した。[13]更にヌルハチが結納したイェヘ国主ブジャイの娘を横取りしようと画策し、挙げ句の果てには妻オンジェ (ヌルハチ姪) を的にして鏑矢を放った。ヌルハチは以上を聞いて愈々以て憤激した。[14][13]

経過

万暦40 (1612) 年9月22日、怒り心頭のヌルハチが出兵。

9月29日、兵20,000 (30,000とも)[15]と共にウラに到着し、ウラ・ビラ (烏拉河) 西岸に沿って進軍した。[16]ウラ国主ブジャンタイイェヘホルチンに援軍を要請しておいて、[17]自ら兵を率いて東岸に現れたが、既に烏碣岩イハン山城で二度惨敗していたウラ軍の士気は動 (やや) もすると沈みがちで、闘志に缺けていた。[18]。しかしヌルハチは攻撃に移ろうとも東岸に渡ろうともせず、兵を派遣して西岸の五城 (六城とも)[19]を立て続けに攻略させ、ウラ・ホトン (烏拉城) 西門から二里の距離にある金州という城に、ウラ・ビラ[20]を隔てて兵営を設置した。

10月1日、ヌルハチが牛を生贄に軍旗を祭ると、ウラ・ホトンの北側、日出の方向から日没の方向へ、青白い筋[21]が現れた。その後、マンジュ軍は金州城に駐箚して、老若男女問わず見つければ直ちに殺戮し、[18]三日かけて周辺の穀物を焼き尽くした。この期間、ウラ軍は日中は外でマンジュ軍と対峙し、夜になると城内に引っ込んだ。ヌルハチの五子・マングルタイ[22]と八子・ホンタイジ[23]が痺れを切らし、即時攻撃を主張すると、ヌルハチ諫めて曰く、

汝等水を水の面汲むが如く言ふこと勿れ、底を浚ふこと言ふ可きか、大いなる木を乃ち砌らば折れなんや、斧もて切りてかすり取り細くなして砌らば折るゝならめ。力同じき大國を一度に滅さましとすれど滅びなんや。外の國を盡く削り取らまし。大城ばかりひとり殘りて外の國皆取られ奴僕滅びなば主如何にしてあらん。部下滅びなば貝勒ベイレ如何にして生きん。[24](『滿洲實錄』)[25]

図:「太祖率兵伐烏拉」(ウラ・ビラが左右に走り、左上にヌルハチ、左下にブジャンタイ。)

10月4日、焼き討ちから兵が戻ると、マンジュ軍がフルハ[26]という部落の渡し場[27]に兵営を張り始めた。ブジャンタイは配下のウバハイ[28]を舟に乗せ講和に向かわせた。ウバハイ曰く、

ハーン怨み怒發して兵來たりしならめ、父汗ハーンの怒生じけるもの止みたるにぞ、一言を言ひて行くべかりしか。[29](『滿洲實錄』)[25]

ブジャンタイが三度派遣するも、しかしヌルハチに応じる気配なし。ブジャンタイはそこで六人の側近を従え自らも舟に乗って漕ぎ出で、舟の上で額づきながらヌルハチに媾和を求めて曰く、

ウラの国は、即ち父汗ハーン、汝の国ぞ。ウラの穀は、即ち父汗ハーン、汝の穀ぞ。穀に火放つを息むべきにや。(『滿洲老檔』)

ヌルハチは馬の腹に水があたるまで河の中へ進み出で、ブジャンタイのこれまでの罪状について詰って曰く、

布占泰ブジャンタイ汝を吾戰に擒へ殺さんずる身を養ひて放ち遣し烏拉の國に主となせり。吾が三人の女を汝に妻とし與へき。天を高く地を厚くと七度誓ひける言葉を變へて、吾が屬なる瑚爾哈[3]の地方を二度襲ひて掠め行きぬ。吾が結納與へて聘きける葉赫イェヘの女を布占泰ブジャンタイ汝奪ひて娶ると言へり。或ゐは又吾の女を鏑箭もて射たり、吾が子を他の國に送れば主の福金[30]となりて過ぐさばやとて與へしならめ、汝を (して)ママ鏑箭もて射ま欲しくば射ましめんとて與へしことかや。吾が子惡ろき罪為さば吾に來たり告ぐべき。 天より降りたる愛親覺羅アイシンギオロ姓の人に手及びしためしを汝出だせ。百代を知らざらんも、十代より此の方汝知らずしてありや。吾が愛親覺羅アイシンギオロ姓の人に手及びしためしあらば、布占泰ブジャンタイ汝是たるべし。吾が兵來たれるもの非なるに違ひなし。手及びしためしなくば、布占泰ブジャンタイ汝何の故に我が子を鏑箭もて射たるか。この鏑箭もて射たる名を吾胸に懷きて留らんや。死なば持ち行かんか。古の人の言へることに、「名折らんよりも寧ろ骨斷て」と云ひてあり。この戰を吾愛で喜こびて來けるものならず、吾が子を鏑箭もて射たりと聞き、これに怨みて吾れ自ら兵擧げ來けるものこれぞかし。(『滿洲實錄』)[25]

図:「太祖義責布占泰」(右中:ヌルハチ、右下:ブジャンタイ。左上で城塞が燃えている。)

ブジャンタイ詭弁を弄し無実を主張して曰く、

吾等が父子を惡ろく爲さましと人讒言するならめ、汝の子を鏑箭もて射、汝の聘きける女を吾娶ると言ひてしあらば、上天あり、吾水の上に立ちてあり、水の主龍王誤たんや。その言葉皆虚りにぞ。[31](『滿洲實錄』)[25]

ラブタイ[32]というブジャンタイの大人の一人が横槍を入れて曰く、

ハーン汝のかく怨める處あらば一人を使遣して問ふ可かり。[33](『滿洲實錄』)[25]

ヌルハチ答えて曰く、

拉布太ラブタイ、汝の如き者吾になからんや。吾が子を鏑箭もて射たるを汝なしとは云ふか。吾が聘きたる女を奪ひて娶らましと言ひけるものを虚りと云ふか。虚りならば吾實を質して問うぞかし、實の處に吾何の故に言問はん、この河又氷張らざる法ありや。吾汝に今ひとたび臨み來たらざる道ありや。拉布泰ラブタイ、汝吾が劒を受けて取り得るか。(『滿洲實錄』)[25]

ブジャンタイはヌルハチの返答を聞いて驚懼し、ラブタイを制止した。ブジャンタイの弟・カルカマ[34]が寛容を乞いて曰く、

ハーン寛きを思はば一言を定めて行く可きか。[35](『滿洲實錄』)[25]

ヌルハチ答えて曰く、

吾が子を鏑箭もて射たず吾が聘きたる女を娶らましと云ひしものに非ざること眞なりと云はば、布占泰ブジャンタイ、汝の子等大人共の子等を質とし齎しけるときは汝眞なるに違ひなし、子等を質として齎さざれば、吾汝に信置かず。(『滿洲實錄』)[25]

余波

ブジャンタイの息子と側近の息子をマンジュへ人質として送ることを媾和の条件に言い置き、ヌルハチは兵営に引き返した。[18][36]この時ちょうどホルチン部の援軍が向っていた為、ヌルハチは大勢と鉾を交えることを避け、ブジャンタイの媾和を受け入れたのだった。[18]その後ヌルハチはウラに五日滞在し、オルホン[37]という部落のイマフ[38]という嶺に木の砦を儲けて、兵1,000を監視として駐屯させ、撤兵した。媾和はヌルハチの緩兵の計と考えられ、三箇月後には、精鋭を揃えたヌルハチがウラ・ホトン (烏拉城) を襲撃した。[18]

また、この戦役はホンタイジにとっての初陣で、ヌルハチの説いた「伐木」戦術[39]は強い印象を遺したらしく、[16]即位後の明朝との戦役においてもこの説諭を意識し、更にそれを参考に自らの「剪枝」戦術を生み出した。[40][41]

参考文献・脚註

  1. ^ 明清战争史略. 遼寧人民出版社. p. 12 
  2. ^ マンジュ・グルンは清太祖ヌルハチが樹立した国家。大日本帝国関東軍の傀儡国家である満洲帝国とは別。マンジュは海西女真を制圧すると、アイシン・グルン (金国=後金) に改号する。子・ホンタイジの時にダイチン・グルン (大清国) と改号される。中国では清以前の政権を「建州部」(建州女真) と表記することが多い。
  3. ^ a b ᡥᡡᡵᡥᠠ (Hūrha):虎爾哈。清初東海三部の一。ᡴᡡᡵᡴᠠ (Kūrka, 庫爾喀)、ᡥᡡᡵᡤᠠ (hūrga, 瑚爾哈:『滿洲實錄』) とも。
  4. ^ a b ᠵᠠᡴᡡᡨᠠ ᡳ ᡥᠣᡨᠣᠨ (jakūta i hoton):扎庫塔城 (『滿洲實錄』)
  5. ^ 窩集部
  6. ^ ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ (sahaliyan):薩哈連 (黒龍江アイグン・ホトン (璦琿城) から黒河河口西岸およびウスリー (烏蘇里) 江スンガリー (松花) 江下流に至る領域)
  7. ^ ᡥᠣᡥᠣᡵᡳ (hohori):何和里。
  8. ^ ᡝᡳᡩᡠ (eidu):額亦都
  9. ^ 「トゥレシェン (ᡨᡠᠯᡝᡧᡝᠨ, Tulešen, 圖勒伸)」と「エレシェン(ᡝᡵᡝᡧᡝᠨ, Erešen, 額勒伸)」(『滿洲實錄』)
  10. ^ ᠮᡳᠩᡤᠠᠨ (minggan):明安。
  11. ^ “布佔泰”. 清史稿. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷223#布佔泰. "四十年,布佔泰复背盟,秋九月,侵太祖所屬虎爾哈路," 
  12. ^ ᠵᠠᡳᡯᠠᠩ (Jaidzang):宰桑
  13. ^ a b 乌拉国简史. 中共永吉県委史弁公室. pp. 76-79 
  14. ^ 維基百科「烏拉河之戰」には「此舉被布占泰之妻,努爾哈赤之女穆庫什得知,遂暗中向建州報信,……」(この暴挙=フルハを略奪し、イェヘの娘を娶ると豪語したことが、ヌルハチから降嫁されたムクシ (穆庫什) に知れると、ムクシは密かに父・ヌルハチのマンジュ国に通報し、……) とあるが、典拠未詳。『滿洲實錄 (満文)』の日本語訳には「明安……女を伴ひ來たらんずるとき、…… 大酒盛 振舞ひて娶りぬ。その時に……布占泰……瑚爾哈の地方を……掠め去りぬ、 又……布齋貝勒の女を娶ると云ひたり。娥恩哲……を鎬箭もて射たり。そを聞きて……」とあり、ムクシの名前は出てこない。
  15. ^ 『滿文老檔』「ula(ウラ) gurun(国) de(に) ilan(三) tumen(万) cooha(兵) isinafi(至りて), ……」
  16. ^ a b 皇太极写真. 商務印書館. pp. 19-20 
  17. ^ 維基百科「烏拉河之戰」より引用、典拠不詳。
  18. ^ a b c d e 乌拉国简史. 中共永吉県委史弁公室. pp. 76-79 
  19. ^ 『滿洲老檔』「ula(ウラ) birai(河の) ebergi(此方の) dalin(岸) i(の) ninggun(六) hoton(城) be(を) sucufi(襲って) gemu(皆) gaifi(取って),……」。あるいは、金州城を含めての六城の意か。
  20. ^ 維基百科「烏拉河之戰」には「建州軍於距離烏拉都城二里處隔江紮營」とあるが、「江」は満洲語でウラ (ula)、「河」はビラ (bira)。マンジュ軍が駐箚したのはウラ・ビラの西岸なので、「江を隔てて」ではなく「河を隔てて」とすべき。
  21. ^ “白氣” (中国語). 重編國語辭典修訂版. 中華民國教育部. https://dict.revised.moe.edu.tw/dictView.jsp?ID=13846&q=1&word=白氣. "白色的煙氣。古以為兵事的徵兆。" 
  22. ^ ᠮᠠᠩᡤᡡᠯᡨᠠᡳ (Manggūltai):莽古爾泰
  23. ^ 『滿文老檔』には「ᡩᡠᡳᠴᡳ ᠪᡝᡳᠯᡝ (duici beile)」とある。「duici」は第四の意。
  24. ^ 原文「水を水の面汲むが如く言ふこと勿れ、底を浚ふこと言ふ可き。」意訳「水面の水を掬うような近視眼的なことを考えず、河底を浚うくらいの深い尺度で物を考えよ。=ウラ兵が見えたからウラ兵 (=表面の水) を叩くのではなく、ウラの根底部分である周辺部落 (河底) を潰してウラを動揺させるのだ。」
  25. ^ a b c d e f g h 滿洲實錄 (満文)”. 満洲文語資料. 2023年5月13日閲覧。
  26. ^ ᡶᡠᠯᡥᠠ (Fulha):富爾哈
  27. ^ 維基百科「烏拉河之戰」には「最後將各城堡夷平後返回富爾哈河駐紮」とあるが、フルハ (富爾哈) は河ではなく城、或いは部落の名。ウラ河の畔にあるフルハという所を指している。後に烏拉城の戦で「富爾哈城」という城が出てくる為、ここでは部落名と理解する。
  28. ^ ᡠᠪᠠᡥᠠᡳ (ubahai):吳巴海 (・巴圖魯)
  29. ^ 意訳「ハーンはさぞお怒りで兵を率いていらっしゃたのでしょうが、已にその怒りも収まったことでしょう。一言言い置いてお引き取りなさっては。」
  30. ^ fujin:妻妾の意。「福晉」とも書く。
  31. ^ 意訳「誰かが私たち父子 (ブジャンタイとヌルハチを指す) の仲を引き裂こうと讒言しているのです。もし私が本当にそのような暴戻を働いたというのなら、私は今水の上にいます、水の主である龍王様がそんな私を生かしておきましょうか。こうして何事もなく水に浮かんでいられるということは、お聞きになったのは全て嘘言なのです。」
  32. ^ labtai:拉布太
  33. ^ 意訳「そこまでお怒りになるならまづは人を派遣して問い質すべきでは。」
  34. ^ ᡴᠠᡵᡴᠠᠮᠠ (Karkama):喀爾喀瑪
  35. ^ 意訳「それでは我々はどう致しましょう。」
  36. ^ 維基百科「烏拉河之戰」には「皇太極請求繼續進兵,努爾哈赤表示,與烏拉這種「相等之國」作戰必須將其周圍城池像伐木一樣不斷劈砍,『漸至微細』,以達到孤立其都城的目的,之後才可一蹴而就」とあるが、文献に「ホンタイジが引き続きウラを攻撃すべしと主張した」という記載はない。また、「木を伐って云々」はフルハ部落の渡し場での会話。
  37. ^ ᠣᠯᡥᠣᠨ ᡨᡠᠩ (olhon tung):鄂勒琿・通 (『滿洲實錄』)。olhonは地名。tungは中国語の音訳かと思われるが、何を指すか未詳。
  38. ^ ᡳᠮᠠᡥᡡ (imahū):伊瑪呼 (『滿洲實錄』)。imahūは羊系の一種の動物も指す。
  39. ^ 「大いなる木を乃ち砌らば折れなんや、斧もて切りてかすり取り細くなして砌らば折るゝならめ。」のこと。したの「剪枝」は、周囲の木を伐り除く「伐木」に対して、木から伸びる枝を剪定すること。
  40. ^ 清朝通史. 紫禁城出版社. p. 267 
  41. ^ 清实录东北史料全辑. 吉林文史出版社. p. 230 

参照文献・史料

  • 編者不詳『滿文老檔』(1775) (満洲語・日本語訳)
  • 編者不詳『大清歷朝實錄』「滿洲實錄」(1781年) (中国語)
  • 趙爾巽, 他100余名『清史稿』巻223「列傳10-布佔泰」清史館 (1928年) (中国語)
  • 孫文良, 李治亭, 邱蓮梅『明清战争史略』遼寧人民出版社 (1986) (中国語)
  • 張璇如, 蒋秀松『清实录东北史料全辑』巻2, 吉林文史出版社 (1988) (中国語)
  • 趙東昇, 宋占栄『乌拉国简史』中共永吉県委史弁公室 (1992) (中国語)
  • 朱誠如『清朝通史』巻3「太宗朝」紫禁城出版社 (2002) (中国語)
  • 陳捷先『皇太极写真』商務印書館 (2011) (中国語)

参考ページ

  • 満洲文語資料」(『滿洲實錄(満文)』検索用として。本項の満洲語は基本的にこのサイトに拠った。)
  • 満洲語辞典」(『滿漢大辭典』などの検索用として)