宜罕山の戦
宜罕山の戦、または宜罕山城の戦 (イハン・アリン(-ジョウ)のたたかい / ギカン-ザン(-ジョウ)のたたかい) は、ウラ・グルン (烏拉国)の要塞であるイハン山の城 (満文:ᡳᡥᠠᠨ ᠠᠯᡳᠨ ᡳ ᡥᠣᡨᠣᠨ, 転写:Ihan alin i hoton, 漢文:宜罕山城、宜罕阿麟城[1])[2]で1608年に勃発したウラ・グルンとマンジュ・グルン (満洲国)[3]との間の戦役。イハン山城はマンジュ軍による包囲攻撃を数箇月に亘って受けながらも持ち堪えたが、最終的に内通者が城門を開放したことで、侵入したマンジュ兵により攻略された。 背景1607年、マンジュ軍は烏碣岩の戦でウラを撃砕し、敵将・ボクドを討ち取ったことでウラの軍事力に壊滅的打撃を与えた。 1608年、ヌルハチはウラ征討を決定し、その進攻先を牤牛河[4]北岸に位置するイハン山城に定めた。[5]イハン山城はウラ・ホトン (烏拉城) 東南の要塞で、マンジュの首都からは55里の距離 (現吉林市東北30里)[6]に位置し、ウラナラ氏出身のベイレが鎮守していた。[5] 経過万暦36 (1608) 年3月 (或いは正月とも)[7]、ヌルハチは長子チュイェンと甥アミン[8]に兵5,000をつけてイハン山城に進軍させた。イハン山城は非常に堅牢で、チュイェンとアミンは包囲攻撃を開始して数箇月で半数の敵兵を殺したが、尚も攻略には至っていなかった。しかし一方で、ウラ側が援軍を寄越す気配はなく、城砦守備兵の内には心理的動揺が萌し始め、猜疑心に襲われた守備兵の一部がマンジュ兵と内通すると、マンジュ兵は秘密裏に開けさせた城門から城内に侵入した。[5] イハン山城は山を背にして築成された為、城門は南の一つしかなかった。侵入したマンジュ軍がその唯一の城門を占拠して以後、ウラ守備兵は脱出不能な状態に陥り、守備軍将校が殺害されると、アミンはイハンアリン城に対して殲滅を行い、残余兵をその家族もろもと殺戮した。[5]マンジュ軍はこの戦役で1,000余人を殺害、甲冑300を鹵獲し、領民と家畜を悉く連れ去った。[9] この時、ウラ国主・ブジャンタイはマンジュ軍の進攻の報せを聞くも、烏碣岩での敗戦に懲りて慎重になり、ホルチン部ベイレ・ウンガダイに援助を要請していた。ウラとホルチンは聯合してイハンアリン城から20里[10]の距離に駐箚したが、遠くにマンジュ軍の勇猛ぶりを認めると、巻き返し困難と諦めて撤退した。[5] 余波万暦36 (1608) 年9月、ブジャンタイはイハン山城が陥落したことで大いに驚懼し、使者を派遣してヌルハチに以前の友好関係を恢復したいと願いでた。ヌルハチからの使者が来ると、イェヘ国・ナリムブルの配下を50人執えて引渡し、全て殺させた。[11][12]その後、ブジャンタイがまた大臣を派遣して和親を求めると、ヌルハチは公主ムクシを妻として与えることとし、侍臣をつけて送り届けた。 万暦38 (1610) 年11月、ヌルハチがニョフル氏エイドゥ[13]に兵1,000をつけてウェジ (窩集) 部のナムドゥル[14]、スイフン[15]、ニングタ[16]、ニマチャ[17]の四路に派遣し、路長[18]を悉く帰順させ、マンジュ領内に移住させた。更にヤラン[19]路に進軍させ、領民、家畜を10,000余り攫って帰還した。 万暦39 (1611) 年7月、子アバタイ、フョンドンらに兵1,000をつけてウェジ部のウルグチェン[20]、ムレン[21]二路を制圧させた。 以上のように、ヌルハチはブジャンタイに娘を降嫁させて以降、暫時的に進攻を止めはしたが、しかしウラ配下の東海部領地への蚕食は止めなかった。数年の内に東海各路が次々とヌルハチに併呑され、ウラは敵の挟み撃ちを受ける形となった。[5] 参照元・脚註
参考文献・史料
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