澤田榮作澤田 榮作(さわだ えいさく、1933年(昭和8年)10月6日 - 2019年(令和元年)10月19日 [1])は、岐阜東照宮奉賛会会長[2]、全国高等学校定時制通信制教育振興会顧問、岐阜県高等学校定時制通信制教育振興会名誉会長、岐阜板垣会名誉会長。文化人。道徳教育家。実業家。 来歴1933年(昭和8年)10月6日、元近衛兵・澤田治朗吉の三男として岐阜県稲葉郡北長森に生れる[3]。母は澤田栄吉の長女・むめ[4][5]。 実業家として1953年(昭和28年)3月、岐阜県立華陽高等学校卒業後、1954年(昭和29年)12月、棚橋工業株式会社へ入社[6]。1956年(昭和31年)12月、家業の丸栄プロパン瓦斯株式会社へ入社[7]。 1959年(昭和34年)12月、丸栄プロパン瓦斯株式会社・専務取締役に就任[5]。 1962年(昭和37年)9月、丸栄不動産株式会社・代表取締役社長に就任[6]。 1963年(昭和38年)10月、西濃運輸の創立者・田口利八に会って生き方に感銘を受け、謙虚と感謝の気持を常に忘れないため髪を剃ることを決意[8]。以降、この丸坊主がトレードマークとなる[5]。 1966年(昭和41年)9月、株式会社マルエイ・代表取締役副社長に就任[6]。 1975年(昭和50年)4月、丸栄電算株式会社・代表取締役社長に就任[6]。 1985年(昭和60年)、マルエイグループ創業百周年を期して、澤田家菩提寺の正厳寺に記念碑を建立[7]。 以降、岐阜県プロパン保安センター協同組合理事長、岐阜県LPガス卸売協会会長、社団法人全国エルピーガス卸売協会副会長など、LPガス業界の各要職に就く。 1989年(平成元年)9月、マルエイ運輸株式会社・代表取締役社長に就任[9]。 1995年(平成7年)6月、株式会社マルエイ・代表取締役社長に就任[7]。2001年(平成13年)6月、株式会社マルエイ・代表取締役副会長に就任。2002年(平成14年)6月、マルエイグループ協同組合・理事長。2013年(平成25年)6月、株式会社マルエイ・顧問に就任、また、一般社団法人岐阜北法人会のOB会会長を務めた[10]。 道徳教育家として1971年(昭和46年)、青木正次の紹介によって、モラロジー淡海農業修練所の講座を受講[7]。 1994年(平成6年)10月、岐阜県モラロジー60周年記念感謝大会実行委員長、1995年(平成7年)5月、岐阜県モラロジー皇居勤労奉仕団の団長を務める。その後、モラロジー研究所常務理事、同生涯学習本部長、同研究所顧問、参与、社会教育講師を経て、岐阜県モラロジー経済同友会名誉会長を歴任する[7]。さらに、財団法人全国高等学校定時制通信制教育振興会顧問、岐阜県高等学校定時制通信制教育振興会名誉会長を務めた[7]。道徳教育を実践し、謙虚と感謝を提言として、2018年(平成30年)には新成人たちに対し、次のような言葉を贈っている[11]。
文化人として郡上の金森・青山藩罪人処刑場跡の無縁仏供養を発起し、30年以上にわたって毎年8月のお盆に祭主となって供養法要を行う[7]。 1958年(昭和33年)以来居住してきた岐阜市北一色の氏神・吉野神社の社殿建て替え事業に尽力し、2002年(平成14年)11月、建て替えを完了させた[7]。 みずから岐阜板垣会の会長となり、25年以上にわたって毎年7月16日の板垣退助の命日に、岐阜公園板垣退助像前で記念式典を主催。板垣精神の顕彰に努めた[12]。その間、高知へも自ら足を運び、高知板垣会会長・古谷俊夫とも交流をはかっている[12]。2018年(平成30年)は、板垣退助百回忌にあたるため[13]、銅像前で岐阜護国神社宮司による祝詞奏上、退助の子孫を主賓に招き「板垣退助先生大感謝慰霊祭」を挙行した[12]。さらに、板垣退助が日光東照宮を守ったことから、岐阜東照宮の社殿再建を発起し、岐阜東照宮奉賛会を創設した[14][15]。 2019年(令和元年)10月19日、間質性肺炎により自宅で死去[1][16]。享年87歳。 2021年(令和3年)6月1日、岐阜東照宮社殿完成[17]。完成式典では、社殿再建の発起人である故 澤田榮作会長に感謝し黙祷が捧げられた[18]。 表彰
主な文化・社会団体役職
主な経済団体役職
系図
マルエイグループ
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |