潁陽千氏
潁陽千氏(ヨンヤンチョンし、朝: 영양천씨)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫は中華人民共和国河南省鄭州市管轄の登封市の潁陽鎮である[1]。2015年の調査では、100,014人である[2]。 歴史『潁陽千氏梅軒公家乗譜』によると、始祖千巌は、中国の明の洪武年間に都総将、版図丞相を務めた。子孫は潁陽に住み、本貫とした。9代後の子孫で中始祖千万里は、1592年の壬辰倭乱時に明の皇帝の名で調兵領糧使兼総督将を務め、息子の千祥、千禧と朝鮮に渡り、平壌、郭山、東萊などで勝利を収めた。1597年の丁酉再乱では麻貴提督の下で中司馬として蔚山などで日本軍と戦った。戦後、息子と朝鮮に帰化した[3]。宣祖は千万里に資憲大夫に奉朝賀の官職を下し、花山君とした[4]。万里には田30結を給復して、長男の千祥は漢城府左尹、次男の千禧は平邱道察訪に任じ、子孫に世禄を授けた[5]。 全羅北道南原市金池面芳村里に千万里の墓があり、慶尚南道固城郡高城東海面壮佐里虎巌書院で千万里の誕生日である旧暦8月1日に祭祀を行う。 起源千氏の起源は、四川省一帯に住んでいた古代の少数民族氐族である。氐族は、中国三国時代から千姓を名乗り初め、陝西省を経て河南省一帯に定着した。 中国河南省の『東方今報』は、河南省武陟県の千氏集姓村を取材して「中国の千氏と韓国の千氏は祖先を同じくする」と報じた[6]。毎年5月、韓国の潁陽千氏宗親会員は、中国河南省登封市の家祠堂を訪問し、中国千氏宗親会と一緒に礼をささげている。 本貫分派
行列字
人物武科に及第して禦侮将軍に宣伝官を務めていた千耕疇と戸曹正郎を務めた千泰疇兄弟が有名であり、千禧の息子千耟疇は寧越郡守と、千耔疇は利原県監をそれぞれ務めた。通訓大夫、繕工監役を務めた千長疇、広州府尹千賛銘、同知中枢府事千順銘、軍資監正千仁銘、漆原県監千慶弼、刑曹参議の千宇烈、訓錬院判官千海、漢城府左尹千祥、礼曹参判千竜瑞、同知中枢府事千仁雲、工曹参議千玉亮、大護軍千世弼などがいる。千緯永と千厚根・千夏永などは、学者として有名だった。文科及第者には千馹成、千光禄などがいる[7]。
科挙及第者6人の過去及第者がいる。
集姓村
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |
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