湯地定監
湯地 定監(ゆち さだのり[1] / ていかん[2]、1849年11月22日(嘉永2年10月8日[2]) - 1927年(昭和2年)1月29日[2])は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍機関中将。貴族院勅選議員。 経歴薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)で、薩摩藩士・湯地定之、貞夫妻の息子として生まれる[2]。 元治元年(1864年)薩摩藩開成所に入所し、慶応2年(1866年)同海軍所に入所[3]。明治5年2月18日(1872年3月26日)兵部省十一等出仕となる[2]。蒸気器械学修業のため米国へ留学。1878年にアナポリスの海軍兵学校 (アメリカ合衆国)へ入学[4]、1881年10月に帰国[2]。同年12月、海軍中機関士に任官[2]。以後、筑紫艦機関長、英国出張(浪速回航事務取扱委員)、浪速機関長、横須賀鎮守府予備艦機関長、扶桑機関長、高千穂機関長、佐世保鎮守府予備艦機関長、横須賀鎮守府機関長兼予備艦部機関長などを経て、日清戦争では常備艦隊機関長、連合艦隊機関長として出征した[2][5][6]。 その後、呉鎮守府機関長兼予備艦部機関長、海軍省軍務局機関課長を経て、1897年12月28日、海軍機関総監に昇進し海軍機関学校長に就任[2][5][6]。さらに海軍教育本部第二部長、大本営附を務めた[2]。1906年1月26日、海軍武官官階表の改正により海軍機関中将となり、同年4月28日予備役、1914年3月1日後備役を経て、同年10月8日に退役した[2][5][6]。 1906年5月17日、貴族院勅選議員に任じられ[7]、死去するまで在任した[1]。 栄典
親族脚注
参考文献
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