渡辺香津美
渡辺 香津美(わたなべ かづみ、1953年10月14日 - )は、東京都渋谷区出身のジャズギタリスト[1]。現在、洗足学園音楽大学の特別講師も務める[2]。ギタリストの中牟礼貞則は師匠にあたる。高校の同級生に山本達彦[3]、先輩にモト冬樹やグッチ裕三がいる。妻はピアニスト・作曲家の谷川公子[4]。 バイオグラフィ東京都渋谷区・宮益坂下交差点のたばこ屋に生まれる。山手幼稚園、暁星小学校、暁星中学校・高等学校出身[5]。 音楽との出会いは小学2年生から始めたピアノ・オルガンの稽古。父がチャップリンの映画音楽やルイ・アームストロング、ラテン音楽などが好きだったことも影響している。「中学2年でベンチャーズに興味を持ち、初めてギターを手にした。」とされているが実際は小学校6年生の頃に道玄坂にオープンしたヤマハミュージックに毎日のように通って弾いていた。小中高の先輩にモト冬樹がおり、モトが弾くエレキギターが生で聴く初めてのエレキの音だったという[5]。 その後ジャズに興味を持ち、ヤマハ音楽教室で中牟礼貞則に学び始める[5]。 1971年、17歳で『インフィニット』を発売、デビュー。その卓越したギター・テクニックで「17歳の天才ギタリストの出現」と騒がれた。渡辺貞夫らトップミュージシャンのグループに在籍した。 1977年、新宿ピット・インへセッションで出演するにあたり、ドラマーのつのだ☆ひろから誘いを受けて、ベースの高水健司、キーボードの坂本龍一と初共演して強烈な刺激を受ける。この当時、渡辺はアルバムを制作する話があり、先のセッションからつのだと坂本、そしてベースには後藤次利を起用して『Olive's step』をレコーディングした。それが、渡辺がジャズに加えてクロスオーバー(後のフュージョン)に傾倒する切っ掛けとなる。 1978年、坂本龍一のファーストアルバム『千のナイフ』のレコーディングに参加し、さらに日本コロムビアのベターデイズ・レーベルからリリースされたことにより、そこから先行してリリースしていた渡辺とはレーベルメイトにもなる。また、前年にオープンした六本木ピット・イン(新宿ピットインの姉妹店)で渡辺と坂本は頻繁に共演を重ねるようになる。 1979年、六本木ピットインにて渡辺香津美ウィークリーセッションをするにあたり、そのなかの一日を坂本がプロデュース。これがこの年5月にリリースする渡辺のアルバム『KYLYN』へと繋がる。当初、『KYLYN』はアルバムのみのプロジェクトではあったが、渡辺と同じ音楽事務所に所属する増尾好秋のツアーが全国各地のホールを押さえた後で頓挫したことにより、その埋め合わせに渡辺と『KYLYN』レコーディングメンバーによる全国プロモーションツアーが組まれることになって行われる。同時期、KYLYNバンドとほぼ同じメンバーによる坂本龍一&カクトウギセッション、坂本龍一がメンバーであったイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のライブにも参加。 そして、YMOが夏から秋にかけて海外ツアーをするにあたっても引き続きサポート・ギタリストとして参加した[6]。帰国する頃には、YMOはブームを飛び越して社会現象となるなどその異常人気は過熱していて、渡辺は思いもかけないことに巻き込まれる。YMOの所属レコード会社、アルファレコードはその海外ツアーの模様を収録したライブアルバム『パブリック・プレッシャー(公的抑圧)』を制作するにあたって、渡辺の所属していたレコード会社、日本コロムビアの意向で渡辺が演奏したパートの収録は叶わなくなってカットされることとなり、代わりに坂本のシンセサイザーが追加録音された(渡辺のギターがそのまま収録されたテイクは、後年リリースの『フェイカー・ホリック』などに収録された)。以降、渡辺とYMOの共演は無くなってしまう。 1980年、三度目となるニューヨーク録音のアルバム『TO CHI KA』ではヴィブラフォン奏者のマイク・マイニエリがプロデューサーとして迎えられている。このアルバムの収録曲「ユニコーン」が日立のオーディオ・ブランド「Lo-D」のCM曲に使われ、渡辺自身も出演して人気を不動のものとする。 1981年からはFM東京(当時)系列で自身の番組『グッド・バイブレーション〜渡辺香津美・ドガタナ・ワールド』のラジオパーソナリティを務める[7]。 1982年に日本コロムビアからポリドール(現:ユニバーサル ミュージック ジャパン)に移籍、併せて自らのレーベル「domo」(ドモ)を立ち上げる。 1983年には来日したジャコパストリアスと、マイクスターンの代役として共演している。この時の音源は、アルバム『ワード・オブ・マウス・バンド 1983ジャパン・ツアー』に収録されている。 1987年、ビル・ブルーフォード、ジェフ・バーリンとのトリオで「スパイス・オブ・ライフ」を発表。同編成で日本公演を行い、この映像は当時にテレビ放送されたほか、レーザーディスクで市販された。後にDVDとしても発売されている。 翌1988年には同編成にキーボードPeter Vetteseを加え、続編の「スパイス・オブ・ライフ・ツー」を発表。ライブではジェフ・バーリンは参加しなかったが、代打としてバニー・ブルネル、キーボードにKAZUMI BANDからの盟友である笹路正徳が参加し主要都市を廻るツアーを敢行した。 1990年から1996年にかけて関西テレビの深夜ローカル番組『夢の乱入者』に出演。ポップス系を中心に異分野のミュージシャンをゲストに招き、トークとスタジオライブ(東原力哉、清水興らとのバンド。公開収録もあり)で多数と共演した[8]。 1999年ボトムラインNYにてマイク・マイニエリ、ラリー・コリエル、ジョン・パティトゥッチ、ミノ・シネル、矢野顕子らとライブ収録。ポリドールからアルバム『One for All』をリリース。 2005年より一時、NHK-FM『ジャズ・トゥナイト』ラジオパーソナリティを務めた。 2013年、ジェフ・バーリンと「スパイス・オブ・ライフ」以来となる共演ライブを5月に行う。ドラムは引退したビル・ブルーフォードに代わり、ヴァージル・ドナティ(元プラネット・エックス、リング・オブ・ファイア、キャブ等)が参加。ジェフの発案でレコーディング。11月にも公演を行い、新作「スピニング・グローブ」からの新曲を演奏した。 10月にはブルーノート東京でリー・リトナーと「マーメイド・ブールヴァード」「アランフェス協奏曲」以来35年ぶりの共演を果たした。 近年では、公私共にパートナーでもある、谷川公子とのユニット・Castle in the Air(同名タイトルアルバムも発表)での活動も行っている。なお、同ユニットでのリーダーは谷川である。 2024年2月27日、軽井沢の自宅で倒れ救急搬送された。同年3月31日、精査の結果、意識障害を伴う脳幹出血と診断され入院加療中であること、また、医師の診断に基づき本年度予定されていたすべてのアーティスト活動を中止し、治療に専念することを公式サイトにて報告した[10][11]。 同年7月11日、谷川が自身のFacebook及びnoteを更新、渡辺が4月に意識を取り戻し、回復期リハビリテーションに特化した病院に転院したことを報告した[12][13][14]。12月17日に谷川が再びnoteを更新、10月25日に自宅に戻り現在は在宅療養にあること、「要介護認定5、肢体不自由により障害者1級」に認定されていることを明らかにした[15][16]。 使用機材ギターはデビュー以来現在まで様々な形状、スタイルのものを使用している。初期はアレンビック・SSG、アリアプロII・RS-850、PE、オベーションなどを使用。その後、ギブソン・レスポール・スペシャルや、スタインバーガー、ヴァレイアーツ、ポール・リード・スミスなどを経て現在はコリングス(collings)などプロジェクトによって多種のギターを使い分けているため、使用ギターは頻繁に変わる。 あまりヴィンテージ・ギターは使用しないが『TO CHI KA』の裏ジャケに写っている、1956年製のギブソン・レスポール・スペシャル(1980年にマンハッタンの楽器店に立ち寄った際にデヴィッド・スピノザが試奏していたもので、スピノザが一旦帰った後に慌てて頭金を払い即購入した[17])、オベーション・アダマス1687-2などはたまにライブやレコーディングに使用する。 近年はマーティンのヴィンテージのD-45を手に入れ、使用している。 TOCHICAのアルバムジャケットでおなじみのギブソンレスポールスペシャルは、本人が1980年にマンハッタンの楽器店に立ち寄った際にデヴィッド・スピノザが試奏していたもので、スピノザが一旦帰った後慌てて頭金を払いその後即購入したものである[18]。 特に現在渡辺が多数のライブで使用しているセミアコースティックタイプのエイブリベラは、彼がエイブリベラにソリットギターをオーダーした際に、エイブリベラ本人から『君をイメージしてつくったんだ』という言葉とともに手渡されたものである。 クラシック・ギターはポール・ジェイコブソン、今井勇一などを経て、現在は主にローデン(Lowden)やウォーターロード(WaterRoad),アントニオ・マリン・モンテロ、ヘルマンハウザー3世、マーティンD-45、12弦はマーティンクラプトンモデルなども使う。 アンプは現在、レコーディング等にKenperを多用。ライブはUCHS,CARR,ULBRICK(Kazumi Original Model)などをステージングにより使い分けている。 アコースティックプロジェクトでは現在、会場によってPAなどがいない状況の場合、持ち込みPAシステム(Mayer UPM-1P)を持ち込み、自身で傍に卓を置いてオペレートしながら公演を行う事もあり、自分用モニターとしてAER Compactを配置して、どんな状況下においても対応している。 様々なメーカーで自身のシグネイチャーモデルを作っている。 2014年には、島村楽器のHISTORYブランドより、50本限定でシグネイチャーモデル「Tidewater」も発売された。 以前、ギフィン(Giffin)からも、島村楽器の様にインレイなども全く同じでは無かったが、仕様は全く同じKazumi Modelが発売されている(取扱、スクラッチギター)。 かなりの機材マニアで、エフェクターはその時代の新製品を使用することが多く、頻繁に変わる。ギターシンセサイザーはプロジェクトに応じて使用する。 人物・エピソード世界的なミュージシャンとの共演経験も多数あり、マーカス・ミラー、スティーヴ・ジョーダン、トニー・レヴィン、オマー・ハキム、マイケル・ブレッカー、ピーター・アースキン、マイク・マイニエリ、デイヴィッド・サンボーン、ビル・ブルーフォード、ジェフ・バーリン、リチャード・ボナ、スティーヴ・ガッド、ジャコ・パストリアス、エディ・ゴメス、ジョン・パティトゥッチ、マイク・スターン、リー・リトナー等とアルバム制作を行なっている。(ジャコ・パストリアス、エディ・ゴメス、スティーヴ・ガッド、ジョン・パティトゥッチはライブ盤) 友人であるパット・メセニーは香津美について、『彼がニューヨークに来たらニューヨーク中のギタリストの仕事がなくなってしまう』と語った。 マイルス・デイヴィスは、1981年、KAZUMI BANDのニューヨークでのライブを見に来ていて、ライブ後に自身の新しいバンドに渡辺を誘ったが、マイルスのしゃがれ声を聞き取ることができず、次の日のスタジオ・セッションに誘われたことがわからず、実現しなかった。後に、アルバム「The Man With The Horn」のレコーディングに参加しバンドのレギュラー・メンバーとなったマイク・スターンは、渡辺に『香津美がもしあの日のセッションに来ていたら、自分ではなく香津美がバンドに入っていたかもしれない。』と語っている。 LUNA SEA、X JAPANのギタリストであるSUGIZOは『間違いなく日本で一番のギタリスト』と渡辺を評している。 ディスコグラフィアルバム(リーダー作品)1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代以降
コンピレーション・アルバム
共作・ゲスト参加アルバム
映像資料
著作
メディア出演テレビラジオ
CM
脚注
関連項目関連資料
外部リンク
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