渡辺重綱
渡辺 重綱(わたなべ しげつな)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。尾張藩の家老。渡辺半蔵家2代当主。 略歴天正2年(1574年)渡辺守綱の子として三河国に誕生。天正16年(1588年)、徳川家康に出仕、小田原征伐、関ヶ原の戦いに出陣。慶長15年(1610年)父と共に家康の九男・義直に付属せられ、大坂冬夏両陣では先鋒を務めた。 元和6年(1620年)父・守綱の死去により、三河と近江国の遺領を2代将軍・徳川秀忠より賜り、義直からも尾張国に5000石の知行を賜る。後、同心の知行として7000石を加増される。 寛永18年(1641年)執政(家老)となる。寛永20年(1643年)隠居して家督を四男・治綱に譲り、隠居料として2000石を賜る。 系譜
長男・勝綱は慶長15年(1610年)秀忠に仕え、大坂の陣に出陣、元和元年(1615年)父に先立って没した。次男・仲綱は早世。三男・忠綱は元和元年(1615年)秀忠に仕え、父より3000石の分与を受けるも、元和9年(1623年)父に先立って没した。五男・吉綱は兄忠綱の名跡を継いで元和9年(1623年)秀忠に仕え、後に武蔵野本藩主となる。六男・綱貞は徳川家光に仕えて従五位下大隅守に叙任、江戸南町奉行や大目付等を務めた。のちの延宝8年(1680年)6月27日、大目付を勤めていた頃、越後騒動の裁定に対して徳川綱吉の勘気を被り、改易および八丈島へ遠島処分となった。綱貞の三人の息子も他家へ預けられた。 七男・長綱は重綱の死後、その隠居料だった2000石を相続して尾張藩に仕えることになる。長綱は寛文八年(1668年)九月朔日に享年26で早世するが、長綱の長男・基綱は大名渡辺家を相続して野本藩主及び和泉国伯太藩主となり、次男・定綱は本家で尾張藩万石年寄の渡辺半蔵家を相続することになる。 出典
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