渡辺一雄 (作家)渡辺 一雄(わたなべ かずお、1928年7月3日[1] - 2014年12月8日[2])は、日本の作家・評論家。 本姓・小川。大丸に勤めて1976年、デパートの内幕を描いた『野望の椅子』で日本作家クラブ賞を受賞。企業小説、経営評論を多く執筆した。 生涯幼少期から海軍兵学校まで1928年(昭和3年)7月3日、京都市中京区西ノ京冷泉町で生まれる。父親は岐阜県から小学校卒業と共に上洛して京都市電の運転士をしており、母親は小さな雑貨商をしていた。長男の一雄の2年下に妹、5歳下に弟がいたほか、祖父母も同居し、7人で暮らしていた。 西ノ京冷泉町や朱雀第六小学校の付近は京都市役所、繁華街の四条河原町と同じ中京区にもかかわらず、行政に忘れられたような寂しいエリアであった。非電化の山陰本線(1988年に嵯峨野線の愛称がつき、1990年に電化)の汽車が通る度に自宅が揺れた。母親の雑貨商は土間に2、3台並べたケースに軍手、軍足、肌着、チリ紙など日用雑貨を置いていただけで店舗といえるほどのものではなかった。1980年時点で存命だった父親のほうは、酒をごくわずかに飲むだけの真面目な人物で、一雄が物心ついたころには車掌から事務職員への登用試験を受け、小学校卒としては最高位まで出世した[3]。 小学校5年生の時、担任が自宅に来て、成績が優秀な一雄に上級の学校、それもできれば旧制中学校への進学、将来的には中学校から第三高等学校を経て京都帝国大学への進学を勧めた。第一商業学校(現在の商業高校)に通う製餡工場の息子のほかは小学校卒しか周囲にいなかったので、母親は戸惑ったが、「ボヤボヤしてたらあかん」と一雄に言うようになり、勉強させた。妹と弟がいたので、半ば進学をあきらめていたので大喜びして勉強した[4]。 1941年(昭和16年)、京都府立第三中学校(現在の京都府立山城高等学校)へ進学した。既に戦局が悪化しているからこそ逆転を狙い、陸軍士官学校や海軍兵学校に進学するための軍人学級入りを志望した。しかし、京都帝大を卒業して出世することを期待した母親や、軍人になることを期待していた祖母までもが悲しがった。1944年(昭和19年)には学徒動員で愛知県半田市乙川の中島飛行機製作所へ向かう。12月7日には東海地方で地震が発生し、同級生13名を失った[5]。 1945年(昭和20年)4月、海軍兵学校舞鶴分校に入学した。しかし、半年で敗戦を迎える[6]。 大阪商大時代1946年(昭和21年)4月、大阪市立商科大学(大阪市立大学を経て、現在の大阪公立大学経済学部・商学部)に入学する。京都の実家から通学した。 小説の好きな友人ができたが、感化されて小説家を志望するようになり、彼を驚かす。長沖一の自宅を探し出して弟子にさせるよう頼むと、気が弱い長沖は「商大の学生だったら経済の勉強を」と言って何とか断ろうとしたが、強引に弟子入りした。さらに、長沖の紹介で秋田實のところにも行くようになる。長沖には小説、秋田には漫才の台本を何本も書いて持っていくも、学校の勉強をしているか聞かれるばかりで、作品は診てもらえず、ついに作品をもっていかなくなった。しかし、両氏との交流を続けるばかりか、二人が亡くなった後もその夫人に様々な相談をしていた[7]。 朝鮮戦争が収まると不況が近づいており、周囲の学生は就職難に備えて勉強していた。一雄も小説家を断念して就職活動をした。ゼミナールの主任教授が就職希望を聞くと、一雄はデパートへ就職したいと言った。土地柄か商社、銀行、メーカーの順に志望者が多く、第一志望にデパートを挙げる者はほぼいなかった。大卒初任給が1万円を超す会社もある中、デパートは当分そうなる会社は無かったため、主任教授は怪訝に思った。しかし、普段は閑散としている母親の雑貨商を祭日に手伝うのが好きだった一雄は、小売業の王者であったデパートへの就職を志す。大丸のみ入社試験を受け、合格。家族、先輩、友人に加え、長沖・秋田両氏も大いに祝福した。 入社後心斎橋の本社で半年の教育を受けた後[注釈 1]、9月に京都店に配属された。大阪商大の先輩にあたる店次長の下で、子供服売場に勤務した。半年後、サトウサンペイのいた宣伝課へ異動。 やがて、業務以上に日本共産党関係者を追放するための労働組合活動にいそしみ、労働貴族と呼ばれるような生活を送っていた。 しばらくすると、労働組合から離れ、小説の執筆を始めた。しかし、大丸梅田店出店などに関する会社の内情を暴露するような小説を書いたと判断した会社と対立した[注釈 2]。読者からの応援もあったが、1980年(昭和55年)に当時の社長・井狩彌治郎宛ての退職願と称して『退社願・株式会社大丸社長殿 だから、私は会社を見限った』を出版し、退職[8]。以降は執筆活動に専念した。 著書
脚注
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