深川車両基地深川車両基地(ふかがわしゃりょうきち)は、東京都江東区にある、東京地下鉄(東京メトロ)の車両基地および車両工場の総称である。車両基地の深川検車区(ふかがわけんしゃく、北緯35度39分46.4秒 東経139度48分45秒座標: 北緯35度39分46.4秒 東経139度48分45秒)、車両工場の深川工場(ふかがわこうじょう、北緯35度39分50秒 東経139度49分6秒)から構成される。東西線の車両が所属している。最寄駅は深川工場は東陽町駅で、深川検車区は木場駅。 なお、2009年(平成21年)度には行徳検車区が組織統合され、同車庫は深川検車区行徳分室となった[1]。 概要本車両基地は東西線車両の車両留置、検車区業務、工場検査業務を行う車両基地として設けられた[2]。敷地は東西方向に細長く、約 860 m × 98 m の長方形をしている[2]。最終計画では10両編成32本(320両)が留置可能な車両基地とした[2]。しかし、将来の車両増備にはなお不足が生じることから、同時に下妙典留置線(当時)を設置した[2]。 車両基地は越中島貨物駅に近接しており、基地用地は東京都が所有していた江東区営野球場および東京都港湾局が管理していた運河を譲り受けて取得した[2]。 車両基地の建設にあたり、貯木場を兼ねていた運河は埋め立てられた[2]。このため敷地は軟弱地盤であり、地盤沈下対策として路面より1.67 m の盛土を行った[2][3]。盛り土は、東西線大手町、日本橋、茅場町駅付近の建設工事で発生した残土を[4]、当車両基地用地まで運搬して使用した[4]。盛土量は 13万7,000 m3 にも及ぶものである[4]。 しかし、車両基地発足後も予想を大きく超える地盤沈下が発生し[3]、何度か作業場の改修・改良工事を行われている[3]。 東京メトロの他の車両工場では、一つの工場で複数の路線の車両の保守整備を行なっている事例がほとんどであるが[5]、深川工場では東西線の車両のみ保守整備を行なっており、東京メトロの車両工場では唯一1路線の車両のみ取り扱っている。 本検車区の発足まで東西線の検査業務は、最初の開業時には本格的な車両基地がなく、九段下駅付近に設置した側線を飯田橋検車区と称し、検査業務を行っていた(本検車区発足前は、飯田橋検車区の項目を参照)[6]。さらに中野駅延伸後は、国鉄の三鷹電車区(現・JR東日本・三鷹車両センター)内に飯田橋検車区三鷹出張所を設置し、毎日検査と新車の受取検査を実施していた[6]。車両数に対して、車両基地の収容数は大幅に不足しており、一部車両は豊田電車区(現・JR東日本豊田車両センター)に留置していた[3][6]。中野駅終端部にあるY字形の引き上げ線においても、1966年(昭和41年)3月 - 1967年(昭和42年)9月まで検査線として使用していた[7]。 東西線車両の定期検査(重要部検査・5000系1次車18両)は1966年(昭和41年)2月 - 5月に日比谷線の千住工場において実施をした[8]。さらに同車両基地の拡張工事により、1967年(昭和42年)4月から翌1968年(昭和43年)3月にかけて竹ノ塚検車区で検査を実施した(7両編成22本・154両)[8]。これは帝都高速度交通営団(当時の営団地下鉄)では他に検査ができる施設がないためであった。 検査を実施するため、中央線と山手線経由(豊田または三鷹→新宿経由品川→上野[3])で常磐線に入り、さらに北千住から東武伊勢崎線(当時、常磐線と伊勢崎線の線路は構内で接続していた)を経由し、折り返しのため草加まで下ってから、千住工場のある日比谷線南千住まで自力回送した[3][9](出場時は逆の経路となる[9]・竹ノ塚検車区の入出場は草加を経由しない)。 深川検車区の発足により、飯田橋検車区は廃止され、深川工場の発足により、国鉄線経由での検査回送は廃止されている。 注:当時の法定検査周期は重要部検査が1年6か月または走行距離25万km以内、全般検査は3年以内と、現在よりも大幅に短かった。 深川検車区主な業務は、東西線用車両の月検査と車輪転削、車両清掃である。
配置車両東西線の全車両が配置されている。
過去の配置車両その他、6000系の1次・2次試作車は当初は本検車区に配置され、東西線で試験を行った。また、半蔵門線用として新製された8000系も一時的に配置されたことがある。これは当時、05系電車がまだ設計中の段階であり製造に至っていなかったことから半蔵門線延伸用として製造していた3編成が冷房準備車として当基地に配属された。ここで冷房改造を施工し、当の05系が配属されると予定通り半蔵門線へ配属された。 設備
主に以下のように使用されている。 基地の北西側に事務所がある。基地の北側からはその奥に洗浄線などが見え、その奥に検車庫が見える。 乗り入れ車両である東葉高速鉄道2000系も留置される。通常ではJR車が車両基地内に入庫する定期運用はないが、入庫した実績はある。2003年3月頃にはE231系800番台が営業運転前に貸し出された。
また隣接地には東京メトロ社員向けの福利厚生スポーツ施設である東京メトロ総合運動場や東京メトロ体育館が所在する。施設に面した明治通り上には都営バスの「東京地下鉄総合運動場前」バス停があり[10]、これらの施設の最寄り交通機関となっている。 沿革(深川工場を含む)
深川工場深川工場は1968年(昭和43年)4月に、東西線の工場業務担当職場として建設された。工場設備は、各職場を分散配置から1つの建屋に収めたり、車体職場は横置きから縦置きにするなど、合理的な配置が採られている。 1981年(昭和56年)3月には車体更新修繕場が完成し[11]、5000系車両の更新工事(B修工事やC修工事)の施工や冷房装置取付け工事、同車の東葉高速鉄道1000形への改造実績がある。民営化後も、05系のC修工事・冷房装置更新や、有楽町線から転属した07系の改造工事などが実施された。 東西線に所属する車両の重要部検査・全般検査及び改造工事等を行う。また東葉高速鉄道に所属する車両についても、同社からの委託により行われている。 担当車両過去の担当車両概要沿線道路(工場北側)から見て1番手前の線や手前から2番目の線には編成を組んだ状態又は編成を2分割した車両が留置される。写真奥に見える工場内に列車が入っている時には扉が閉まっている事が多い。この線は構内試運転に用いられる事もある。手前から2番目の線も入場車両の留置に用いられる。 東西線車両は編成を2分割しても自走可能であり、敷地内の移動は自走による事も多いが、無車籍の牽引車に牽引される事もある。 公道から離れた奥の方では1両ずつに分割してクレーンで車体を持ち上げなどが行われる。その東側では台車置き場などがある。手前の線から出てきた車両がスイッチバックして奥の方に入って行くことがある(なお、この入換に使用されるポイントは手動である)。
位置東京都江東区塩浜に位置する(この地域は旧区名から深川と呼ばれる)。 検車区の南側には総武本線越中島支線の越中島貨物駅がある。かつては敷地がほぼ隣り合っており、貨物駅からの連絡線が存在し、ほど近い汽車製造東京製作所(江東区南砂、小名木川駅から接続していた)で新製された5000系と6000系試作車の搬入に使用されたこともあった。その後、1990年代に越中島貨物駅の敷地が縮小されたため、現在は検車区との間に住宅やジェイアールバス関東東京支店などを挟む形となっている。また、そのさらに南側には京葉線の新東京トンネル出口(位置としては越中島駅 - 潮見駅間)が位置している。 当車両基地は東西方向に伸びていて、深川車庫線は東陽町駅から南へ180°曲がって来るため、本線上とは車両の向きが逆になっている。構内の東側に工場、西側に検車区があり、工場は東陽町駅前交差点を南下した地点にあるが、検車区は木場駅からともほぼ同じ位の距離か、むしろ同駅からの方が近い。 なお、地形がわずかに傾いているため、工場側ではほぼ地面と同じ高さであるが、検車区側ではやや地面より高くなっている。 深川車庫線深川車庫線は、東陽町駅付近東側にある地上部の都営南砂住宅付近[4](東京地下鉄道東西線建設史では、当時あった汽車製造東京製作所と書かれている[4])から深川車庫に至る約 1.1 km(地下部は約0.7 km ・地上部は約0.4 km)の複線構造の入出庫線である[12][4]。東西線からの分岐部には、半径120 m の急曲線や、地下から地上部へのアプローチ部には上り40 ‰ の勾配がある[4]。総武本線越中島支線に沿って南下する[4]。 車両基地の手前で地上に出ると塩浜通りを「南砂町第一架道橋」でオーバーパスし、汐浜運河を橋梁で渡って深川車両基地に至る[4]。また、深川車両基地から東に向かって保線機材線があることから、汐浜運河橋梁は深川車庫線2線と保線機材線の3橋梁構成となっている[4]。保線機材線は、深川車両基地の東側にある東西線信通区、東西線工務区の施設に繋がっている。 地下区間・地上区間とも軟弱地盤構造であることから、地下区間ではイコス工法(当時津覇車輌工業があった 50 m のみ)[4]や地上からケーソンを埋め込む潜函工法(384.5m・潜函12基を埋め込み)を採用して施工した[4]。地上区間では、南砂町第一架道橋および汐浜運河橋梁の橋台基礎部に、大径鋼管ぐい(太さ 1,000 mm ・長さ 40 m)を使用するなど特殊工法を採用した[12][4]。建設時には、越中島支線が潜函工事に支障することから、線路の移設工事が行われた[4]。 一般公開本車両基地は、一般公開されたことがある。
脚注
参考文献
関連項目 |