浪乃花教天浪乃花 教天(なみのはな かずたか、1969年3月19日 - )は、青森県南津軽郡浪岡町(現:青森市)出身で二子山部屋に所属した元大相撲力士。本名は工藤 和博(くどう かずひろ)。現役時代の体格は178cm、135kg。最高位は東小結(1995年3月場所)。得意手は突き、押し[1]。血液型はO型。 来歴農家の三男として生まれ、浪岡町立野沢小学校時代は相撲大会で常に優勝し、3年生の時には4年生の部で優勝するなど活躍した。浪岡中学校時代は相撲から離れて陸上部で活躍し、将来は体育教員を志していた。しかし、中学校3年の時に家へ訪ねて来た10代二子山(元横綱・初代若乃花)から勧誘され、中学校卒業後に二子山部屋へ入門。1984年5月場所で初土俵を踏んだ[1]。 幕下時代の1989年1月場所、本名の工藤から浪ノ花に改名。体格は良くなかったが持ち前の負けん気と稽古が実り、1990年11月場所で新十両に昇進。その後、一時幕下に落ちたものの盛り返して、1992年9月場所で新入幕を果たした[1]が、以降しばらくの間は幕内と十両を往復する状況が続く。その期間中、十両優勝を2回記録しており、その間に当たる1994年3月場所には浪乃花に改名している。 4度目の入幕となった1994年11月場所では、10勝5敗と2桁勝利を記録し、生涯唯一の三賞となる敢闘賞を受賞[1]。なお同場所では、浪乃花が千秋楽の取組でもし負けていたら、史上初の三賞受賞者無しになるところであったが、それから24年後の平成30年9月場所は三賞制度が制定されてから初めて殊勲、敢闘、技能の各賞受賞者が該当者ゼロに終わった。 1995年3月場所では、最高位となる東小結に進んだ[1]。だが、6勝9敗と3点負け越し、三役経験はこの場所のみで終わっている(浪乃花は、三役以上との対戦経験が一度もないまま小結に昇進したが、これはとても珍しい事例であった)。突き押しを得意手とした取り口は、志に溢れて気風が良く、特に相手をぐっと睨みつける厳しい仕切りには人気があった[1]。この所作は横綱・千代の富士を髣髴とさせ、相撲雑誌で「ミニウルフ」とニックネームが付けられた事がある。 浪之花に改名して迎えた1996年3月場所での魁皇戦に於いて左肘を痛め、この負傷が相撲人生にとって致命傷となり、ついに二度と勝ち越せなかった。同場所から6場所連続負け越したことにより、1997年3月場所では幕下にまで陥落してしまった。そして、同場所初日の取組を最後に27歳で引退[1]。年寄名跡を取得できなかったため、引退後、直ちに日本相撲協会から去った。 その後料理店を経営し、東京都港区西麻布(最寄駅は乃木坂)で、ちゃんこ鍋料理の店「天海地」を経営していた。2013年3月22日をもって西麻布店を閉店し、4月上旬から門前仲町で新たな「天海地」を経営していたが、こちらも2016年9月末に閉店した。またその一方で、J Sports ESPN『劇戦!大相撲』の解説者も務めている。尚、「天海地」の店名は現役時代「工藤」の本名から「天下一」を捩って、自身で考えていた四股名だったが、師匠に申し出る前に「浪ノ花」への改名届が出たと言うエピソードがある。その他、現役後半の「浪之花教隆」は現役時代、仲の良かった同門の幕下力士で廃業後に早世した親友の名前を盛り込んだものだと言う。 元横綱・初代若乃花の10代二子山が育てた最後の幕内力士で、師匠交代後に三役昇進を果たしたが、最初の関取は二子岳、最後の関取は浪之花(当時・浪乃花)で奇しくも、共に最高位は小結である。 師匠・10代二子山の停年により1993年2月に二子山部屋と藤島部屋が合流、12代藤島(元大関・貴ノ花)が11代二子山を襲名し二子山部屋を継承。同時に同年5月場所後、12代荒磯(元小結・二子岳)が二子山部屋から分家独立し、荒磯部屋を創設することが決定した。浪ノ花は荒磯部屋への転籍を希望し、10代二子山に直訴したが「髷を切ってから行け」と話に取り合わ無かった為、二子山部屋に残留することとなった。なお、10代二子山の弟子で荒磯部屋へ転籍が認められた力士は、荒磯と同行する15代尾上(元前頭・飛騨乃花)の甥に当たる序二段・平林(後の幕下・荒慧)1名のみであった。 略歴
主な戦績
場所別成績
幕内対戦成績
改名歴
関連項目脚注外部リンク
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