浜口富士子
浜口 富士子(はまぐち ふじこ、1909年9月 - 1935年10月9日)は、日本の女優である[1][2][3][4]。濱口 冨士子と表記されることもある。本名は鈴木 冨士子(すずき ふじこ)[1][2][3]。澤田正二郎率いる新国劇の研究生を経て、日活太秦撮影所の新進女優として一世を風靡したが、早世した[1][2]。夫は元俳優の神田俊二[1][3]。 来歴・人物1909年(明治42年)9月、東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区)に生まれる[1][2][3][4]。一ツ橋高等女学校を卒業後、澤田正二郎(1892年 - 1929年)が創立した新国劇の研究生となり、本名の鈴木冨士子名義で舞台に出演[1][2][3][4]。 1929年(昭和4年)、浜口は『キネマ旬報』同年1月1日号より、1928年(昭和3年)に公開された欧米映画『噂の女』で主演を務めたノーマ・タルマッジ(1894年 - 1957年)が寄贈した洋装一式を賞品に公募した「モダンガール懸賞募集・美人投票」に応募する[1][4]。600人の応募のうち、浜口を含む25人の予選通過者の写真が銀座にある松坂屋に展示され、一般の人気投票を求めた結果、6888票中1271票を得て当選[1]。当選結果は同誌の同年3月21日号によって発表されたが、去る3月4日に師匠の澤田が急逝した為、映画俳優に転向しようと考えた矢先とあって、この公募をきっかけに日活のスカウトを直ちに承諾し、同年7月、日活太秦撮影所現代劇部に入社[1][2][3][4]。同年7月2日に内閣を組織した浜口雄幸(1870年 - 1931年)にあやかって浜口富士子と改名する。デビュー作は同年9月15日に公開された、中村武羅夫(1886年 - 1949年)の東京朝日新聞連載小説の映画化で阿部豊監督映画『蒼白き薔薇』に島耕二、夏川静江、沢蘭子と共演[1][3]。以後、南部章三(後の南部彰三)、中野英治、村田宏寿、大日方伝の相手役を務め、新進女優として華々しく売り出し、また阿部豊監督映画『日本晴れ』や伊奈精一監督映画『むすめ尖端エロ感時代 第二篇 娘突貫100哩』などで主演を務め、大活躍した[1]。 ところが1930年(昭和5年)、幾つかの映画で共演した神田俊二(1900年 - 戦争末期)との恋愛の末に同棲生活に入り、前途に陰りを見せ始める[1][3]。1931年(昭和6年)には、神田が父神田鐳蔵(1872年 - 1934年)によって設立され、昭和恐慌の影響で廃業危機に陥った紅葉屋商会を立て直す為、同年6月の三枝源次郎監督映画『太平洋横断』を最後に退社し、上京している[1]。浜口も神田のあとを追って上京した為、同年後半は渡辺邦男監督映画『肥後の駒下駄』で河部五郎(1888年 - 1976年)と共演したのみである。1932年(昭和7年)、稲垣浩監督映画『旅は青空』と伊丹万作監督映画『研辰の討たれ』に出演後、神田と結婚[1][2][3]。翌1933年(昭和8年)、熊谷久虎監督映画『彼女の道』を最後に退社し、家庭に入った[1][2][3]。 1934年(昭和9年)6月、日活へ復帰[1][3]。同年、日活多摩川撮影所が製作した溝口健二監督映画『愛憎峠』の出演が決まっていたが、直後に結核で倒れて断念する[1][3][5]。1935年(昭和10年)春、千葉県市川市真間の高橋病院に入院していたが、容態は安定せず、同年10月9日に死去した[1][2][3][5]。満26歳没。トーキー作品への出演は1作もなく、出演作品はすべてサイレント映画であった。 浜口の死去から31年後の1961年(昭和36年)、日活太秦現代劇部のスタッフとして活動していた伊奈もと(伊奈モト)により『髪と女優』(日本週報社)が刊行され、同書には「悲惨な死 浜口富士子」として一章が割かれているが、佳人薄命を地で行くような生涯であった[1][5]。 出演作品日活太秦撮影所特筆以外、全て製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」、全てサイレント映画である。
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日活多摩川撮影所全て製作は「日活多摩川撮影所」、配給は「日活」、特筆以外は全てサイレント映画である。 脚注外部リンク |
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