浅沼商会
株式会社浅沼商会(あさぬましょうかい)は、写真映像用品を扱う商社で、各種写真器材の輸入販売、卸売りを手がけている。 概要創業者の浅沼藤吉(1852-1929、安房国滝口村出身)は日本橋の薬問屋を出てから写真館相手に湿板写真の薬品の行商をしたのち、1871年に東京呉服町に写真材料専門店「浅沼商会」の看板を上げた[2][3]。1875-76年頃に王子製紙に託して写真台紙の国産化を進め、1877年京都支店を、1878年大阪支店を開設した[3]。当初は輸入の困難から外国商人から仕入れていたが、写真師の増加に伴い1877年頃から直輸入に踏み切った。1881年頃からは宮内省の写真材料の御用も務めた[3]。上野彦馬にスワン乾板を示教されて以来、乾板を輸入していたが、実弟の吉田勝之助を米国に留学させ、帰国後の1884年に平河町に東京乾板製造会社を建設し、1891年に雑誌「写真新報」を復刊[3]。本所横網町にカメラと付属品の工場を設立し、パリ万国博覧会 (1900年)に自社製品を出品、その後日本橋区本町に本店を置き、シベリア、東インド、南洋などにも自社製品を輸出するなど、写真材料・機器の製造・販売で写真工業業界をリードした[3]。 小西屋六兵衛店(現コニカミノルタ)とは1軒挟んだ隣同士で、ライバル意識もあってか顧客サービスを重視し、両店とも評判は上々であった[2]。金持ちの写真旅行には随行し荷物持ちやご機嫌取りをし[2]、有名な写真大尽の鹿嶋清兵衛が旅先でお金を使い果たして泣きついて来た時などは東京から大金を取り寄せて用立てたという[2]。 1906年、不正業者を断ち写真機材の交換を組織的に行う目的で東京写真材料商組合が結成された。当時は取引の系列は浅沼派と小西派に分かれていたため、両派で1年おきに組合長を担当することになった。 第一次世界大戦後の好景気で小回りの利く小規模写真材料商の数も増えたことから、浅沼は卸売問屋に転じた[2]。 古くからKINGという自社ブランド名(日本国登録商標第90625号の12、1918年)で、写真用台紙、アルバム、現像用品、撮影用品などを販売している。創業は1871年(明治4年)、会社の設立は1928年(昭和3年)である。本社は東京都中央区日本橋小舟町のヤクシビルに所在する。 また、グループ企業としてアクメルがあった。 沿革
外部リンク出典参考文献外部リンク
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