浅井長時
浅井 長時(あざい ながとき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。尾張国苅安賀城主。 経歴浅井新八郎(諱は政貞等)の子[2]。『寛政重修諸家譜』では某とされ、母の記名はなく、幼名は田宮丸、諱は長時に作るとある[3]。 天正10年(1582年)の本能寺の変以前に父の遺領[4]を継ぎ、尾張衆として織田信忠の軍団に組み込まれる[2]。 天正12年(1584年)正月、岡田重孝、津川義冬、滝川雄利、そして長時の信雄の家臣団で響力を持つ四家老が、羽柴秀吉に大坂に招かれて、密談の後に起請文を書かされたが、雄利のみ拒否して帰った。雄利がこれを信雄に報告したので、信雄は彼以外の三家老は秀吉に内通したと怒り、3月6日、三家老は長島城に呼び出され、岡田は土方雄久が、津川は飯田正家が、長時は森久三郎[5]がそれぞれ謀殺した。その後、苅安賀城は森に与えられた[6][7]。 『重修譜』に長時の没年16とあり[3]、谷口克広はそれでほぼ正しいだろうとする[2]。 登場作品脚注
参考文献
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