沖縄に関する特別行動委員会 (おきなわにかんするとくべつこうどういいんかい、英語 : Special Action Committee on Okinawa 、SACO )とは、沖縄県 の米軍の施設・区域の整理統合・縮小ならびに運用方法の調整について検討するため、アメリカ合衆国連邦政府 と日本国政府 との間で1995年11月に設立された機関である[ 1] 。正式名称は、「沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会 (英語 : Special Action Committee on facilities and areas in Okinawa )」。沖縄日米特別行動委員会[ 2] 、日米特別行動委員会 [ 1] とも。
概要
米軍施設の位置を示す沖縄の地図(2007年時)
沖縄本島 及びその周辺諸島は、第二次世界大戦 において激烈悲惨な沖縄戦 を経て米軍 の支配下に置かれ、サンフランシスコ平和条約 による日本の主権回復後もアメリカ合衆国による沖縄統治 が続いた。米軍施設はその間、中華人民共和国 の成立や朝鮮戦争 などの極東情勢に応じて、「銃剣とブルドーザー 」として記憶される用地接収などにより旧日本軍 の使用区域を超えて整備されていった[ 注釈 1] [ 注釈 2] [ 3] [ 5] [ 6] 。
1972年に27年間に亘るアメリカ統治が終わり沖縄が日本に復帰 した後も、多くの米軍基地が日米安全保障条約 に基づく提供施設・区域としてそのまま引き継がれた。本土においては米軍基地の整理縮小が進む一方で、日本の国土面積の1%にも満たない沖縄県に在日米軍施設・区域の約75%[ 注釈 3] が集中し、住民の生活環境や地域振興に大きな影響を及ぼす状況が続いた[ 4] [ 5] [ 7] 。度重なる米兵犯罪や基地の騒音・事故への不安により蓄積された沖縄県民の反基地感情は、1995年9月に発生した沖縄米兵少女暴行事件 によって噴出することとなった[ 2] [ 6] [ 8] [ 9] 。
アメリカ側でも、在沖米軍基地部分返還策実施にもかかわらず、1990年の知事選で保守系の現職西銘順治 が基地撤去を掲げる革新系の新人大田昌秀 に敗れたことが重大視され、「沖縄に不可欠な軍事的能力・施設を維持する一方、沖縄の人々の問題関心をいくらか解決するための新たなアプローチ」を模索していた[ 8] 。他方でクリントン 政権においては、ノドン ミサイルの試射を行い核開発疑惑 が持たれていた朝鮮民主主義人民共和国 の動向などを受けた国防計画の見直し(ボトムアップレビュー)により、冷戦 終結に伴いブッシュ・シニア 政権が策定した海外兵力削減方針が撤回され、朝鮮有事などを見据えて二つの大規模な地域紛争(2MRC)に対応可能な戦力の確保が志向された[ 8] [ 10] [ 11] 。これにより、在沖米軍基地の存在が再び重視されるようになっていた[ 8] 。
SACOは、これらの基地問題解決や日米地位協定 (SOFA)の改善を求める世論並びにアメリカ側の事情を背景に、1995年11月に日米両政府によって設置されたものであり、日本の外務省 ・防衛庁(現・防衛省 )、アメリカの国務省 ・国防総省 ・在日米軍がカウンターパートとなって米軍基地負担軽減を巡る日米交渉が実施された[ 注釈 4] [ 2] [ 9] 。
これらの取り組みの結果、1996年12月にSACO最終報告 が出され、沖縄米軍基地の約21%に相当する、11施設・約5000ヘクタールを今後5~12年以内に返還することや普天間飛行場 の返還にともなう代替ヘリポートの建設 が合意され、県道104号 超え実弾砲撃演習の廃止や航空機騒音 の軽減措置、さらに地位協定の見直しなどについて改善を図ることとされた[ 2] [ 9] 。
SACO最終報告をもってSACOは解散となり、実現に向けての検討は日米安全保障高級事務レベル協議(SSC)に引き継がれた[ 2] 。
SACO最終報告
SACO最終報告では、土地の返還 ・訓練及び運用の方法の調整 ・騒音軽減イニシアティヴの実施 ・地位協定の運用の改善 が明記された。
土地の返還の対象となった11施設
※ 各施設の位置は、図参照。
普天間飛行場
北部訓練場 (2016年12月22日、対象区域返還[ 12] )
安波訓練場 (1998年12月22日、全部返還[ 13] )
ギンバル訓練場 (2011年7月31日、全部返還[ 14] )
楚辺通信所 (2006年12月31日、全部返還[ 15] )
読谷補助飛行場 (2006年7月31日、全部返還[ 9] )
キャンプ桑江
瀬名波通信施設 (2006年9月30日、対象区域返還[ 16] )
牧港補給地区 ( 2018年3月31日、対象区域返還[ 17] )
那覇港湾施設
住宅統合(キャンプ桑江及びキャンプ瑞慶覧 )
沿革
1995年(平成7年)
1996年(平成8年)
1月11日 - 第1次橋本内閣 が発足。内閣総理大臣談話が出され、沖縄米軍基地問題への取り組みについて決意表明される[ 26] 。
1月10日 - 日米外相会談が行われ、池田行彦 外務大臣 とウォーレン・クリストファー 国務長官 が「沖縄の基地問題の解決は重要である」との認識で一致[ 18] 。
2月23日 - サンタモニカ で開催された日米首脳会談で、「沖縄の問題で何か言い残したことはありますか」と呼びかけたクリントン大統領に対し、橋本龍太郎 首相が「難しい問題だと承知しているが、普天間を返してほしいというのが沖縄の強い希望だ」と申し出る[ 27] 。
4月12日 - 橋本首相とモンデール駐日米大使が、普天間飛行場について、「今後、5年ないし7年ぐらいに」能力と機能を維持するための措置[ 注釈 5] が取られた後に「全面返還される」と共同記者会見で発表[ 28] 。
4月15日 - SCCにおいて、池田外務大臣、臼井日出男 防衛庁長官 、ペリー国防長官及びモンデール駐日大使がSACOでの協議に基づく重要なイニシアティヴ(土地の返還・訓練及び運用の方法の調整・騒音軽減イニシアティヴの実施・地位協定の運用の改善)について合意(SACO中間報告 )[ 8] [ 29] 。
4月16日 - 「沖縄県における米軍の施設・区域に関連する問題の解決促進について」閣議決定。SACOでとりまとめられる具体的措置の的確かつ迅速な実施を確保するための方策について、法制面及び経費面を含め総合的な観点から早急に検討を行い、十分かつ適切な措置を講ずることとされる[ 30] 。ビル・クリントンと握手を交わす橋本龍太郎(1996年4月17日)
4月17日 - 東京で開催された日米首脳会談(橋本首相、クリントン大統領)で日米安全保障共同宣言が出され、両首脳は「SACOを通じてこれまで得られた重要な進展に満足の意を表するとともに、SACO中間報告で示された広範な措置を歓迎」するとともに、11月までにSACOの作業を成功裡に結実させるとのコミットメントが示された。一方で、「国際的な安全保障情勢において起こりうる変化に対応して、両国政府の必要性を最も良く満たすような防衛政策並びに日本における米軍の兵力構成を含む軍事態勢について引き続き緊密に協議する」との文言は、米兵力削減への歯止めとしてクリントン政権に利用された[ 8] [ 31] 。
9月 - SACO現状報告がまとめられ、普天間飛行場の移設に関する基本方針(ヘリポートの嘉手納空軍基地 への集約、キャンプ・シュワブにおけるヘリポートの建設、海上施設の開発および建設についての検討)が打ち出される[ 8] 。
9月8日 - 日米地位協定の見直し及び基地の整理縮小に関する県民投票 が行われ、投票の89%が米軍基地の整理縮小について賛成[ 32] 。
9月10日 - 橋本首相が沖縄問題についての談話を発表。「政府としては、普天間基地の返還・移設や県道104号線越え実弾射撃訓練の本土移転などの諸課題について、米国と協議を進めるとともに、各地域住民の御理解と御協力を得ながら、その解決に向けて全力を尽くしてまいります」との意思表示がなされた[ 7] 。
12月2日 - SCCにおいて、池田外務大臣、久間章生 防衛庁長官、ペリー国防長官、モンデール駐日大使によってSACO最終報告が承認 される[ 33] 。
脚注
注釈
^ 沖縄県を除く全国の米軍施設・区域では約87%が国有地であるのに対し、沖縄県内の施設・区域では約23%が国有地で、残り約77%が県有地・市町村有地・民有地となっている(2020年資料)[ 3] 。
^ 2002年時では、沖縄の県土面積に対して米軍基地が占める割合は約10.4%、沖縄本島に限定すればその割合は約18.8%を占めた[ 4] 。
^ 米軍専用施設での割合。 日米地位協定第2条第4項(b)に基づき米軍が一時的に利用できる施設「米軍一時使用施設」を含めた割合では、2割程度となる[ 4] 。
^ SACOの構成員は、 日本側が外務省北米局長・防衛庁防衛局長・防衛施設庁長官・統合幕僚会議議長、米国側は国務次官補・国防次官補・太平洋軍司令部第5部長・在日米軍司令官・在日米国大使館次席公使・統合参謀本部メンバーであり、 通常の地位協定上の問題を協議する日米合同委員会 よりもランクの高いメンバーが参加している[ 4] 。
^ 既に存在している米軍基地野中での新たなヘリポート建設、嘉手納飛行場への追加的施設整備による普天間飛行場の一部の機能の移設・統合、普天間飛行場に配備されている空中給油機の岩国飛行場への移駐(岩国飛行場のハリアー戦闘機 は米国本国に移駐)、米軍による施設の緊急使用について日米共同研究[ 28] 。
出典
関連項目
外部リンク