沈徳燮
沈 徳燮(しん とくしょう/シェン・デーシェ、沈德燮)は、中華民国空軍の軍人。字は少悦。 経歴現在の福州市倉山区城門鎮出身。福州英華書院及び協和大学を経て[2]、1913年7月、煙台海軍学校8期駕駛班卒業。同期には中山艦艦長として壮絶な最期を遂げた薩師俊がいる。1917年3月、南苑航空学校第2期卒業[3]。1920年、北京航空事務処の主催で蔣逵、江光瀛、呂德英らとともにイギリスに留学。1921年6月、海軍部の主催で蔣逵とともにアメリカに留学[4]。 1922年、保定航空隊(隊長:敖景文)航空練習班教官兼主任[5]。23年冬、航空練習班は保定航空教練所(所長:鄧建中)となり、教育長[6]。1924年3月19日、工兵上校[7]。1924年4月、保定航空教練所所長。 1924年9月、中央航空司令部航空第2隊隊長[8]。第2次奉直戦争に参加。10月、保定航空教練所は孫岳率いる国民軍第3軍に接収され、保定航空学校に改称。また、1925年1月に国民第三軍航空司令就任。 1925年12月6日、陸軍少将[9]。 国民革命軍航空処に加入し、1927年4月に蒋達、黄静波と共に中央軍事政治学校航空籌備委員[10]。同年10月1日、国民革命軍海軍航空処処長[11]。軍事委員会軍政庁航空処飛機工廠長(1928年8月3日[12])、1929年9月、上海海軍總司令部飛機處處長[13]。9月18日、中華航空協進第2回全国代表大会監察委員[14]。11月、航空処飛行訓練班教官[15]。 海軍航空処長(1930年4月1日[16])、飛行考試委員会主任委員(1931年春[17])、軍政部航空署軍務処長(1933年7月17日[18])を歴任。 1934年5月、南昌にて航空委員会が設立されると第一処(参謀処)処長[19]。1935年9月4日、空軍上校[20]。1936年1月、航空委員会は南京に移駐。1月14日、航空気象委員会第一処処長[21]。 日中戦争勃発後の8月、南京第一空軍区司令[22]。ただしこの時、沈は王叔銘、佟彦博とともに戦闘機200機・爆撃機100機の購入交渉のためソ連に赴いており[23]、その間は職務を劉牧群に代行させていたものと思われる。 12月の南京陥落後、第一空軍区司令部は蘭州に移る。1939年1月、航空委員会訓練総監部総監。1940年5月25日、空軍少将[24]。1941年3月26日、航空委員会副主任。1943年、カイロ会談に中国空軍代表として参加。 1945年2月、退役し中国航空公司総経理。同年8月、国際民航機臨時理事会儀出席。 1947年5月、中国航空公司高級顧問。国共内戦後、中国航空は香港に拠点を置く。1949年11月9日、中国航空のパイロットらが中共に転じた両航事件が起こり、11月15日、総経理に復帰。しかし中国航空は解散が決まり、香港にて清算事務を行う。1950年3月、香港にて一年ほど宝石店を経営し、台湾に渡った[25]。 栄典出典
参考
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