水野甚次郎 (5代)5代 水野 甚次郎(みずの じんじろう[1]、前名・恭造[2][3]、1881年(明治14年)3月2日[1][3][4] - 1958年(昭和33年)8月12日[1][3][5])は、日本の実業家、政治家、広島県多額納税者[6][7]。貴族院議員[7]、広島県呉市長[1][4]。呉商工会議所顧問[7]。水野組(現五洋建設)、水野造船所各会長[8]。 人物広島県出身[8]。先代甚次郎の長男[3][7][9]。東京物理学校(現東京理科大学)で学んだ[5]。1906年(明治39年)以降、土木建築請負業を経営[4]。1920年(大正9年)呉市会議員当選し[3][4]2期在任[3]。1926年、市会議長に就任する[4]。1927年(昭和2年)水野土地合資会社を創立、無限責任社員となる[4]。 1928年(昭和3年)家督を相続し[7]、恭造を改め襲名する[2][3][8]。1929年(昭和4年)合名会社水野組を創立、代表社員となる[4][10]。1932年(昭和7年)市会議長に就任[4][10]。同年、広島県多額納税者として貴族院議員に互選され[4][10]、同年9月29日に就任し[11]、交友倶楽部に所属し1946年(昭和21年)12月6日まで在任[5][12]。1933年(昭和8年)呉商工会議所顧問[10]。1937年(昭和12年)5月、呉市長に就任し、1941年(昭和16年)5月に再選され、同年12月まで在任[3][13]。戦後、1946年(昭和21年)1月、呉市長に再選され、同年11月まで在任し[3][14]、あわせて3度呉市長をつとめた[1]。その後、公職追放となる[15]。 趣味は旅行[2][7][8]。宗教は真宗[2][7][8]。主義主張は民主主義、鉄筋コンクリート住宅建設、電化日本、婦人教育の高揚[8]。住所は広島県呉市宮原通[7]、東京都港区芝南佐久間町[2][8]。 家族・親族
脚注
参考文献
関連項目 |
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