毛利安子毛利 安子(もうり やすこ、天保14年3月8日(1843年4月7日) - 1925年(大正14年)7月24日)は、幕末期から大正時代の女性。最後の長州藩主・公爵毛利元徳の正室。公爵毛利元昭ら5男1女の生母。 生涯天保14年(1843年)、長府藩主毛利元運の次女として日下窪の江戸上屋敷に生まれる。母は正室欽子(土浦藩主・土屋彦直の娘)。初名は銀姫。嘉永4年7月16日(1851年8月12日)、9歳で宗家当主・毛利慶親(元運の再従弟)の養女となる。安政5年1月18日(1858年3月3日)、徳山藩主毛利広鎮の十男・定広(後の元徳、嘉永4年11月に慶親の養子となっている)を婿に迎え、桜田の江戸上屋敷で婚儀を挙げた。このため定広夫妻は双方ともに養子、いわゆる夫婦養子にあたる。 文久2年(1862年)、幕府が参勤交代の禁制を緩和して大名妻子の国許居住を許可したため、江戸を離れ萩に下った。翌文久3年(1863年)の下関戦争の際は、先頭に立って家内を盛り立てたという。続いて元治元年(1864年)7月の禁門の変により長州藩は朝敵となり、幕府により2度の長州征伐が行われた。こうした中、元治2年(1865年)2月、第1子となる長男・興丸(後の元昭)を出産した。結婚8年目で生まれた男子のため、興丸の入浴まで自ら行い、愛育した。慶応3年(1867年)、倒幕の密勅により長州藩は朝敵から一転して朝廷側となり、敬親(慶親)と広封(定広)の官位も回復した。養父と夫がともに京や江戸に赴き、国許を留守にすることが多い中、国許に知らせが届くと率先して安子が応対したという。明治2年6月4日(1869年7月12日)、敬親の隠居により元徳(広封)が長州藩主となったが、17日には元徳は山口藩知事となった。 華族となり東京に移住した後は、婦人教育や慈善活動に力を注ぎ、1890年(明治23年)から大日本婦人教育協会会長を務め、日本赤十字社の要職も務めた。1922年(大正11年)、勲四等[1]に叙勲。1925年(大正14年)に没した。享年83(満82歳)。 血筋
栄典登場作品参考文献
脚注
関連項目
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